【姓名】 郭氏(かくし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 安平郡(あんぺいぐん)広宗県(こうそうけん)
【生没】 184~235年(52歳)
【吉川】 第277話で初登場。
【演義】 第091回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・文徳郭皇后伝(ぶんとくかくこうごうでん)』あり。
魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の正室、文徳郭皇后
父は南郡太守(なんぐんたいしゅ)を務めた郭永(かくえい)、母は董氏(とうし)。
郭家は代々長吏(ちょうり。県令〈けんれい〉や県長〈けんちょう〉)を務める家柄だった。
まだ郭氏が幼いころ、父の郭永は素質を高く評価し、「この子は私の娘の中の王様だ」と言っていた。このことから郭氏には「女王」というあだ名が付いた。
郭氏は早くに両親を亡くし、戦乱による流浪の末、銅鞮侯(どうていこう)の家の召使いに身を落とす。ところが魏公(ぎこう。213~216年)に昇った曹操(そうそう)の目に留まり、東宮(とうぐう。太子の宮殿)に仕えることになった。
郭氏は知略を働かせ、いつも曹丕に意見を述べた。曹丕が曹操の後継者に決まったことにも彼女の影響があったという。
220年1月に曹操が崩じ、翌2月に曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐと、郭氏は夫人(ふじん。王妃の位のひとつ)となる。
同年10月、曹丕が漢(かん)の禅譲を受ける形で帝位に即くと貴嬪(きひん。皇妃の位のひとつ)となった。
翌221年には曹丕の正室の甄氏(しんし)が亡くなっているが、これは曹丕の寵愛が郭氏らに移ったことが原因だった。
翌222年、曹丕は朝臣の反対を押し切り、郭氏を皇后に立てた。
226年、曹丕が崩じて曹叡が帝位に即くと、郭氏は皇太后と尊称され、永安宮(えいあんきゅう)と呼ばれることになった。
235年、郭氏は許昌(きょしょう)で崩御(ほうぎょ)。後に首陽陵(しゅようりょう。曹丕の陵)の西に埋葬された。
管理人「かぶらがわ」より
郭氏の死について、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』には、「曹叡は即位後、すでに母の甄氏が亡いことを思い起こして悲んだ。そのため郭氏はこれを憂えて、突然崩御したのである」とありました。
さらに「甄氏は死に際し、曹叡のことを李氏(りし。曹丕の側室)に託していた。郭氏が崩御すると李氏は初めて、甄氏が郭氏の讒言(ざんげん)により、葬儀でひどい扱いを受けていたことを語った」と続き――。
曹叡は悲嘆して涙を流し、郭氏の葬儀にあたっては母の甄氏が受けた扱いと同じにするよう命じます。復讐ですね……。
この件では習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』も引かれており、「甄氏が曹丕に誅殺されたのは郭氏への寵愛が原因だった。(甄氏の)殯(かりもがり。埋葬する前に、柩〈ひつぎ〉に遺体を納めて安置すること)の時には振り乱した髪で顔を覆わせ、口に糠(ぬか)が詰め込まれた。その後、曹丕は郭氏を皇后に立て、曹叡を養育させたのだった」とあります。
このことを知った曹叡は怒りを抱き、涙ながらに母の甄氏が亡くなったときのことを郭氏に尋ねました。
しかし、郭氏は謝るどころか曹叡の態度を非難したため、腹を立てた曹叡が郭氏を脅して殺害し、殯を行う担当者に「甄后(甄氏)の例に倣え」と命じたのだとか。
なお王沈(おうしん)の『魏書』によると、郭氏には、ひとりの兄(郭孚〈かくふ〉)とふたりの弟(郭都〈かくと〉・郭成〈かくせい〉)、ひとりの姉(郭昱〈かくいく〉)がいたことがわかりました。
あと銅鞮侯については、范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(郡国志〈ぐんこくし〉)によると、幷州(へいしゅう)の上党郡(じょうとうぐん)に銅鞮県がありました。封地はここかもしれません。
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