【姓名】 胡烈(これつ) 【あざな】 玄武(げんぶ)
【原籍】 安定郡(あんていぐん)
【生没】 ?~270年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第116回で初登場。
【正史】 登場人物。
蜀(しょく)で独立をもくろんだ鍾会(しょうかい)の野望をつぶす
父は胡遵(こじゅん)だが、母は不詳。胡奮(こふん)と胡広(ここう)は兄で、胡岐(こき)は弟。胡淵(こえん)という息子がいた。
257年5月、征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こす。
諸葛誕は長史(ちょうし)の呉綱(ごこう)に息子の諸葛靚(しょかつせい)を付け、援軍を要請するため呉(ご)へ赴かせた。
これを受け呉が派遣した援軍の中に将軍の朱異(しゅい)がおり、都陸(とりく。地名)に輜重(しちょう)を置いていた。
このとき太山太守(たいざんたいしゅ。泰山太守)の胡烈は間道から都陸を急襲し、敵の輜重を焼くことに成功する。
同年9月、呉の大将軍の孫綝(そんりん)は鑊里(かくり)で朱異を処刑した。
261年、襄陽太守(じょうようたいしゅ)の胡烈が、呉の鄧由(とうゆう)らが帰順を願い出ている旨を上奏する。
曹奐(そうかん)の詔(みことのり)が下り、征南将軍(せいなんしょうぐん)の王基(おうき)らは進発を命ぜられたものの、王基は佯降(ようこう)ではないかと疑い、大将軍の司馬昭(しばしょう)に様子を見るよう進言して容れられる。
結局、鄧由らの来降はなかった。
263年秋、曹奐の詔が下り、征西将軍(せいせいしょうぐん)の鄧艾(とうがい)と雍州刺史(ようしゅうしし)の諸葛緒(しょかつしょ)が、3万余ずつの軍勢をひきいて蜀へ進撃する。
また、鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の鍾会が別に10余万の軍勢をひきい、斜谷(やこく)や駱谷(らくこく)から進むことになり、胡烈も征蜀護軍(せいしょくごぐん)として従軍した。
同年11月、鄧艾が成都(せいと)に向かうと、蜀の劉禅(りゅうぜん)は戦うことなく降伏。
同年12月、鄧艾は太尉(たいい)に、鍾会は司徒(しと)に、それぞれ昇進する。
鍾会は密かに逆心を抱いており、鄧艾が専断権を発動したことに付け込み、彼に反逆の様子が見えると密告。
翌264年1月、これを受けて曹奐の詔が下されると、鄧艾父子は捕らえられ、囚人護送車で洛陽(らくよう)へ送られることになった。
同年1月、鍾会が成都へ入ったものの、先に受け取った書簡で、司馬昭自身が10万の軍勢をひきいて長安(ちょうあん)に駐屯すると言ってきたことから、自分の反心が見抜かれていると悟る。
そこで翌日、鍾会は護軍・郡守(ぐんしゅ。太守)・牙門騎督(がもんきとく)以上の地位にある者と蜀の旧臣をすべて招き、蜀の政堂において、先月(263年12月)崩御(ほうぎょ)した郭太后(かくたいこう)の喪を発する。
さらに郭太后の遺詔を偽作し、「鍾会が挙兵して司馬昭を廃せ、とお命じになった」とも宣示した。
鍾会は信頼する者に諸軍の指揮を任せ、招いた蜀の旧臣らを役所に軟禁し、兵を置いて厳重に見張らせる。こうして成都の城門と宮門は完全に閉鎖された。
鍾会配下の帳下督(ちょうかとく)の丘建(きゅうけん)はもと胡烈の部下で、胡烈が司馬昭に推挙した者だった。これを鍾会が希望して随行させ、信任していたのである。
丘建は胡烈が罪にかかっていることを悲しみ、鍾会に掛け合い、従卒ひとりを中に入れ、飲食物を届ける許可をもらう。
すると諸軍営もこれに倣い、それぞれ従卒ひとりが中に入れることになった。
胡烈は従卒に息子の胡淵あての手紙を託し、鍾会が軟禁中の者たちを殺そうとしている、という偽の情報を流す。
この偽情報をみな伝え合い、一夜のうちに諸軍営に知れ渡った。
同年1月、胡淵が父の配下の兵をひきいて陣門を出ると、諸軍の兵も陣太鼓を打ち鳴らして続き、先を争い城へ向かった。
鍾会は、姜維(きょうい)に武器や鎧(よろい)を支給していたところだったが、城外で騒ぎ声がして、失火のようだと報告を受ける。それからしばらくすると、兵が城に押し寄せてくるとの報告も受けた。
驚いた鍾会は配下を遣り、軟禁中の諸軍の騎督や郡守を皆殺しにしようとしたが、人々は机を持ち出し、門が破られないようにした。やがて城壁を登ってきた兵と(軟禁中の)騎督らが合流する。
姜維は鍾会の近侍とともに戦い、5、6人を倒したものの、大勢の兵と格闘して斬られる。鍾会も続いて向かってきた兵に殺害された。
同年2月、呉の鎮軍将軍(ちんぐんしょうぐん)の陸抗(りくこう)や撫軍将軍(ぶぐんしょうぐん)の歩協(ほきょう)、さらに征西将軍の留平(りゅうへい)や建平太守(けんぺいたいしゅ)の盛曼(せいまん)らが軍勢をひきい、巴東(はとう)を守っていた旧蜀配下の羅憲(らけん)を包囲する。
同年7月、羅憲の援軍要請に応え、将軍(右将軍〈ゆうしょうぐん〉か)の胡烈が歩騎2万をひきいて西陵(せいりょう)に到着すると、呉軍は包囲を解いて引き揚げた。
後に胡烈は荊州刺史(けいしゅうしし)や秦州刺史(しんしゅうしし)を務め、270年の鮮卑(せんぴ)討伐の際に戦死した。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王基伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『戦略(せんりゃく)』、および『三国志』(魏書・鄧艾伝)や『三国志』(魏書・鍾会伝)などによるものです。
これらに加えて『晋書(しんじょ)』(文帝紀〈ぶんていぎ〉)や『晋書』(武帝紀〈ぶていぎ〉)も一部参考にしました。
胡烈の活躍はあまり目立ちませんが、鍾会の謀反を現場で抑えたのは大功ですよね。
司馬昭も事前に対策はしていたようですけど、鍾会が姜維と組んでうまく事を起こせば、もっと大きな騒動になっていたでしょう。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます