【姓名】 賈充(かじゅう) 【あざな】 公閭(こうりょ)
【原籍】 河東郡(かとうぐん)襄陵県(じょうりょうけん)
【生没】 217~282年(66歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第111回で初登場。
【正史】 登場人物。
魏(ぎ)の曹髦(そうぼう)の死に深く関与し、晋(しん)の元勲となる、魯武公(ろぶこう)
父は賈逵(かき)だが、母は不詳。
賈充は初め李豊(りほう)の娘を娶(めと)ったが、254年に李豊が誅殺され、その娘である李氏も流刑となった。そこで改めて郭配(かくはい)の娘の郭槐(かくかい)を娶る。
この郭槐との間に息子の賈黎民(かれいみん。幼くして病死したという)、娘の賈南風(かなんぷう)、賈午(かご)を儲けた。
後に賈南風は晋の帝位を継いだ司馬衷(しばちゅう)の皇后に昇り(290年のこと)、賈午は韓寿(かんじゅ)に嫁いだ。
228年、賈充は賈逵が死去したため跡を継ぎ、陽里亭侯(ようりていこう)に封ぜられた。
そして曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)に何晏(かあん)の推挙を受け、黄門侍郎(こうもんじろう)に任ぜられる。
249年、司馬懿(しばい)のクーデター(正始〈せいし〉の政変)により曹爽(そうそう)と弟たち、さらにその一派の何晏らが皆殺しとなる。このとき賈充は免官で済み、しばらくして再起用されたという。
曹髦の甘露(かんろ)年間(256~260年)、賈充は司馬昭(しばしょう)の下で大将軍長史(だいしょうぐんちょうし)を務めた。
260年、曹髦が専権を振るう司馬昭の誅殺に動くと、賈充は帳下督(ちょうかとく)の成済(せいせい)を呼んで抵抗を命ずる。成済は兄の成倅(せいさい)とともに戦い、ついに曹髦を刺し殺した。
後に曹奐(そうかん)の咸熙(かんき)年間(264~265年)になると、賈充は中護軍(ちゅうごぐん)を務めた。
265年9月、衛将軍(えいしょうぐん)に昇進し開府が認められる。
同年12月、曹奐が司馬炎(しばえん)に禅譲し魏が滅亡。賈充は車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任ぜられ、魯公に封ぜられた。
268年、賈充も策定に参加した「泰始律令(たいしりつりょう)」が完成する。
271年、都督秦涼二州諸軍事(ととくしんりょうにしゅうしょぐんじ)を兼ねる。
翌272年、司空(しくう)に昇進。
276年、太尉(たいい)に昇進。
279年、賈充は反対を唱え続けたが、呉(ご)討伐の大軍を起こすことになる。彼が大都督(だいととく)に任ぜられたため、やむなく諸軍を統括する。
翌280年、孫晧(そんこう)が晋に降伏し、呉が滅亡した。
282年、賈充は66歳で死去し、武公と諡(おくりな)される。息子がいなかったので(異性ながら)韓謐(かんひつ。賈謐)が跡を継いだ。
★韓謐は韓寿と賈午との間に生まれた息子で、賈充の外孫。
管理人「かぶらがわ」より
『三国志』には賈充の伝が立てられていないため、その事績も断片的なものしか拾えませんでした。一方で、唐代(とうだい)に編纂(へんさん)された『晋書(しんじょ)』には彼の伝が立てられています。
現状ではそちらを吟味できていないので、この記事も中途半端なものになってしまいました。いずれ加筆できればと思います。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます