隗禧(かいき)

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【姓名】 隗禧(かいき) 【あざな】 子牙(しが)

【原籍】 京兆郡(けいちょうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』の中で「儒宗」とたたえられたひとり

父母ともに不詳。

隗禧の家は代々勢力がなく貧しかったが、彼は若いころから学問を好んだ。初平(しょへい)年間(190~193年)に三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)で動乱が起こると南の荊州(けいしゅう)に仮住まいした。ここでも怠けることはなく、自生の稲を採る合間に経書(けいしょ)の暗唱に取り組む。

208年、曹操(そうそう)が荊州を平定すると、隗禧は召されて「丞相軍謀掾(じょうしょうぐんぼうえん)」となる。

曹操が「丞相」を務めていた期間は208~220年。

のち曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)には譙王(しょうおう)の曹林(そうりん)の「郎中(ろうちゅう)」を務めた。

曹林が「譙王」に封ぜられていた期間は222~224年。

曹林は以前から隗禧が優れた儒者であることを聞いており、彼から虚心に学ぶ。隗禧も敬意をもって教えたため、たいへん手厚い下賜を受けたという。

やがて病を得て都へ帰り「郎中」に任ぜられる。80余歳の老齢になると退官し家に戻ったが、なお彼に就き学ぶ者は非常に多かった。

隗禧は経書に明るいうえ、星占の学をよくした。また、種々の経書の解釈を数十万字にわたって著したものの、清書する前に聾(ろう。耳が聞こえなくなること)になり、数年後に病死(時期は不明)してしまったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王朗伝〈おうろうでん〉)に付された「孫叔然伝(そんしゅくぜんでん)」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢の『魏略』によるものです。

そこでは初平年間から建安(けんあん)年間(196~220年)の国家の乱れぶり、中でも学問の荒廃が最もひどかったことも指摘されていました。

黄初元(220)年に曹丕が帝位に即くと再び太学(たいがく)を開き、数百人の学生が集まったそうです。

ところが、曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)から青龍(せいりょう)年間(233~237年)には内外の事件が多く、役務を逃れようとして学問に興味のない者まで太学に入りたがり、学生は4ケタの数に上ったのだとか。

さらに「博士(はくし)」もみな粗雑で、実際に教えるほどの能力はなく、学生も役務を逃れるのが目的なのでまじめに学ぼうとしない。優秀な学生がいても、朝廷は合格水準を非常に高く設定したうえ経典の本義を問わず、文字の意味や書法、句読や注釈などを問うたといい、100人が試験を受けても合格水準に達する者は10人に満たなかったとのこと。

また当時の官吏についても数ばかり多く、ほとんど議論に加われる者がおらず、政堂にいる公卿(こうけい)以下400余人についても、まともに筆を執れる者は10人といなかったとも。これは想像を超えた荒れっぷりで、隗禧らが「儒宗」とたたえられるのも当然ですね。

なおこの『魏略』の中で「儒宗」として名が挙げられているのは、董遇(とうぐう)・賈洪(かこう)・邯鄲淳(かんたんじゅん)・薛夏(せつか)・隗禧・蘇林(そりん)・楽詳(がくしょう)の7人です。

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