曹仁(そうじん)※あざなは子孝(しこう)、魏(ぎ)の陳忠侯(ちんちゅうこう)

【姓名】 曹仁(そうじん) 【あざな】 子孝(しこう)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 168~223年(56歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹仁伝』あり。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の従弟、陳忠侯(ちんちゅうこう)

父は曹熾(そうし)だが、母は不詳。曹褒(そうほう)は祖父。曹純(そうじゅん)は同母弟。

息子の曹泰(そうたい)は跡継ぎ。曹楷(そうかい)と曹範(そうはん)も同じく息子。

曹仁は曹操の挙兵時から付き従って別部司馬(べつぶしば)を務め、行厲鋒校尉(こうれいほうこうい)に任ぜられた。

その後、袁術(えんじゅつ)・陶謙(とうけん)・呂布(りょふ)・張繡(ちょうしゅう)・袁紹(えんしょう)・劉備(りゅうび)・馬超(ばちょう)らとの主要な戦いで数々の手柄を立てた。

大司馬(だいしば)・陳侯(ちんこう)まで昇り、223年に死去。忠侯と諡(おくりな)され、息子の曹泰が跡を継いだ。

主な経歴

-168年(1歳)-
この年、誕生。

-190年(23歳)-
この年、各地の豪族が一斉に決起した際、密かに1千余人の若者を集め、淮水(わいすい)・泗水(しすい)一帯で暴れ回った。

この年、曹操の配下に加わって別部司馬を務め、行厲鋒校尉に任ぜられた。

-193年(26歳)-
この年、曹操が袁術を撃破した際、相当数の敵を斬り殺したり捕らえたりした。

この年、曹操の徐州(じょしゅう)討伐に付き従い、騎兵をひきいて先鋒を務める。別軍として陶謙配下の呂由(りょゆう)を撃破し、彭城(ほうじょう)で本軍に合流。

陶謙軍を大破すると、引き続き曹操とともに費県(ひけん)・華県(かけん)・即墨県(そくぼくけん)・開陽県(かいようけん)を攻め、陶謙の救援軍も撃破した。

-194年(27歳)?-
曹操が呂布を討伐した際、別軍として句陽(こうよう)を攻め落とし、呂布配下の劉何(りゅうか)を生け捕りにした。

-196年(29歳)-
この年、曹操が黄巾軍(こうきんぐん)を平定し、天子(てんし)を迎えて許(きょ)に遷都する。曹仁は広陽太守(こうようたいしゅ)に任ぜられた。

だが、曹操は曹仁の知勇を高く評価していたため広陽郡に赴任させず、議郎(ぎろう)のまま騎兵部隊を指揮させた。

-197年(30歳)-
この年、曹操が張繡を討伐した際、曹仁は別軍をひきいて近隣の諸県を攻略し、3千人の民を捕虜とした。

-200年(33歳)-
この年、曹操が官渡(かんと)で袁紹と対峙(たいじ)していたとき、袁紹の命を受けた劉備が㶏彊(いんきょう)の諸県を攻略する。

この際、曹仁は騎兵をひきいて劉備を撃破し、いったん背いた諸県をすべて平定した。さらに雞落山(けいらくざん)で袁紹配下の韓荀(かんじゅん)も大破した。

-206年(39歳)-
この年、曹操に付き従って壺関(こかん)の高幹(こうかん)を包囲する。

このとき「必殺」を布告した曹操に対し、曹仁は敵に生き残るための退路を開けてやるよう進言して壺関を降す。

曹仁は前後にわたる功績を評価され、都亭侯(とていこう)に封ぜられた。

-208年(41歳)-
この年、曹操が荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を討伐した際、行征南将軍(こうせいなんしょうぐん)として江陵(こうりょう)に駐屯し、孫権(そんけん)配下の周瑜(しゅうゆ)に当たる。

このときの戦いぶりが評価され、安平亭侯(あんぺいていこう)に移封された。

-209年(42歳)-
この年、孫権配下の周瑜との対峙が1年を超え、ついに曹仁は江陵城を捨てて退却した。

-211年(44歳)-
この年、曹操が馬超を討伐した際、行安西将軍(こうあんぜいしょうぐん)として諸将をまとめて潼関(とうかん)を守り、渭水(いすい)の南で馬超を撃破した。

この年?、蘇伯(そはく)と田銀(でんぎん)が曹操に対して謀反を起こすと、行驍騎将軍(こうぎょうきしょうぐん)として七軍(しちぐん)をひきい、田銀を撃破した。

-?年(?歳)-
この年、行征南将軍・仮節(かせつ)に転じ、樊(はん)に駐屯して荊州を鎮撫(ちんぶ)した。

-218年(51歳)-
10月に侯音(こうおん)が宛(えん)で反乱を起こすと、諸軍をひきいて撃破(翌219年1月のこと)し、侯音を斬って帰還した。功績が評価され、征南将軍の官を授けられた。

-219年(52歳)-
8月、劉備配下の関羽(かんう)が樊に攻め寄せた際、漢水(かんすい)が氾濫し、于禁(うきん)らの七軍が水没する。于禁は関羽に降伏した。

樊城は大部分が水没し、関羽の包囲を受けて食糧も残り少なくなる。このとき曹仁が城内の将兵を激励して決死の覚悟を示したため、徐晃(じょこう)の援軍が到着するまで持ちこたえることができた。

-220年(53歳)-
1月、曹操が崩御(ほうぎょ)し、曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐ。

曹仁は車騎将軍(しゃきしょうぐん)・都督荊揚益州諸軍事(ととくけいようえきしゅうしょぐんじ)に任ぜられ、陳侯に移封される。2千戸の加増を受けて3,500戸となった。

さらに、亡き父の曹熾に陳穆侯(ちんぼくこう)の諡号(しごう)が追贈され、墓守として10戸が置かれた。

-221年(54歳)?-
曹仁は召し還されて宛に駐屯する。

孫権配下の陳邵(ちんしょう)が襄陽(じょうよう)に立て籠もると、曹丕の詔(みことのり)を受けて討伐にあたり、徐晃と協力して陳邵を撃破した。このときの功績が評価され、221年4月には大将軍(だいしょうぐん)に任ぜられた。

5月、曹丕に対して反乱を起こした鄭甘(ていかん)の討伐にあたり、これを斬る。その後、曹仁は臨潁(りんえい)に屯営を移し、221年11月には大司馬に任ぜられた。

次いで諸軍をひきいて烏江(うこう)を占領した後、引き返して合肥(ごうひ)に駐屯した。

-223年(56歳)-
3月、部将の常雕(じょうちょう)らを遣わし、濡須(じゅしゅ)の中洲(なかす)を占拠する。そこを足場に、息子の曹泰に濡須城への攻撃を命じた。

しかし孫権配下の朱桓(しゅかん)は、厳圭(げんけい)らを遣って常雕を討ち取ったため、曹仁は退却に追い込まれる。そしてこの3月のうちに死去し、忠侯と諡された。

管理人「かぶらがわ」より

主な経歴を本伝から拾ってみましたが、年に触れていない記事も多く、はっきりしないところが残りました。

もちろん曹仁にも敗戦経験はあります(本伝では触れず)が、やはり曹操の軍事面における右腕と言っていいでしょう。安定感が抜群で、優れた判断力を備えていたことがうかがえます。

本伝によると「曹仁は若いころ身を慎まなかったが、成長して部将になると厳格に法規を順奉し、運用するようになった」ということです。

218年に曹操の命を受けた曹彰(そうしょう)が烏丸(うがん)征伐に赴いた際、東宮(とうぐう)に残った曹丕が曹彰に手紙を送り、曹仁を模範に挙げて、法規を順奉するよう諭したともありました。

また『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)によると、233年5月に曹叡が詔を下し、曹操の霊廟(れいびょう)の園庭に祭らせた3人(夏侯惇〈かこうとん〉・曹仁・程昱〈ていいく〉)の中に彼の名もあります。

なお、吉川『三国志』(第112話)および『三国志演義』(第29回)では、曹仁の娘が孫匡に嫁いだことになっています。

しかし『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫策伝〈そんさくでん〉)では、「曹操が弟の娘を、孫策の末弟の孫匡に縁付けた」とありました。

嫁いだのは曹仁の娘ではなく、曹操の弟の娘ということですね。

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