鮑勛(ほうくん) ※あざなは叔業(しゅくぎょう)

【姓名】 鮑勛(ほうくん) 【あざな】 叔業(しゅくぎょう)

【原籍】 泰山郡(たいざんぐん)平陽県(へいようけん)

【生没】 ?~226年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・鮑勛伝』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

父の大功にもわが身は救われず

父は鮑信(ほうしん)だが、母は不詳。鮑邵(ほうしょう)は兄。

鮑勛は鮑宣(ほうせん)の9世の孫にあたる。鮑宣は前漢(ぜんかん)の哀帝(あいてい。在位、前6~前1年)の時に司隷校尉(しれいこうい)を務めた。

鮑宣の子孫に上党(じょうとう)から泰山に転居した者がいて、そのまま泰山に一家を構えた。

212年、曹操(そうそう)は生前の鮑信の功績を採り上げ、その息子である鮑邵を新都亭侯(しんとていこう)に封じ、鮑勛も召し寄せて丞相掾(じょうしょうえん)とした。鮑勛は清廉で高い節操を保ち、世間に名を知られていたという。

217年、曹丕(そうひ)が王太子に立てられると、鮑勛は太子中庶子(たいしちゅうしょし)に任ぜられる。後に黄門侍郎(こうもんじろう)に転じ、地方へ出て魏郡西部都尉(ぎぐんせいぶとい)となった。

213年10月、魏郡は東西の両部に分割され、それぞれに都尉の官が置かれた。

このころ曹丕の夫人である郭氏(かくし)の弟が曲周県(きょくしゅうけん)で小役人をしていた。その弟がお上の布を盗んだことが発覚し、法に照らせば死刑となるのが当然だった。

このとき曹操は譙(しょう)にいて、曹丕が鄴(ぎょう)で留守を預かっていた。曹丕は何度も自筆の手紙を送り、鮑勛に夫人の弟の免罪を頼む。

しかし、鮑勛は独断で釈放しようとはせず、事の次第を詳しく曹操に報告する。

以前、鮑勛が太子中庶子として東宮(とうぐう)にいたとき、公正な態度を保って曹丕の言いなりにならなかった。当時から曹丕は気に入らないと感じていたが、さらに今回の件が重なり、鮑勛への怒りと恨みはますます募る。

ちょうど魏郡の郡境に配属されていた兵の中に、休暇から戻る期限を違えた者がいた。そこで曹丕は密かに中尉(ちゅうい)に命じ、鮑勛を免職とした。

しばらくして、鮑勛は侍御史(じぎょし)に任ぜられる。

220年1月に曹操が崩ずると、曹丕が魏王(ぎおう)を継いだ。鮑勛は駙馬都尉(ふばとい)の官にあって侍中(じちゅう)を兼ねた。

同年10月、曹丕が帝位に即いた後、鮑勛は狩猟に夢中になっていることを批判。さらに、そのような曹丕に迎合する侍中の劉繇(りゅうよう)は不忠だとも述べる。

曹丕の怒りを買った鮑勛は側近から外され、右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)に転じた。

223年、尚書令(しょうしょれい)の陳羣(ちんぐん)と尚書僕射(しょうしょぼくや)の司馬懿(しばい)が、鮑勛を宮正(きゅうせい。御史中丞〈ぎょしちゅうじょう〉)に推挙する。

やむなく曹丕は起用を認めたが、官僚は襟を正して恐れ、態度を改めない者はいなかったという。

225年秋、曹丕が呉(ご)の討伐を望み、臣下は大いに議論する。

だが鮑勛は、これまでの遠征失敗にも触れて反対。曹丕は腹を立てて治書執法(ちしょしっぽう)に左遷した。

この年、曹丕は再び呉の討伐に乗り出すも、水路が凍結したため長江(ちょうこう)へ船を進めることができず、寿春(じゅしゅん)からの帰途、陳留郡(ちんりゅうぐん)の郡境に駐留した。

太守(たいしゅ。陳留太守?)の孫邕(そんよう)は曹丕への目通りを終えると、鮑勛のもとを訪ねる。

このとき軍営や堡塁(ほるい)が完成しておらず、標識となる囲いがしてあるだけだった。そのため孫邕は斜めに横切り、規定の道を通らなかった。

軍営令史(ぐんえいれいし)の劉曜(りゅうよう)はこの件を追及するつもりだったが、堡塁ができ上がる前だったので鮑勛は問題にしなかった。

翌226年、軍が洛陽(らくよう)に帰還した後、劉曜が罪を犯したため、鮑勛は免職するよう上奏。

それに対して劉曜は、孫邕の軍律違反を鮑勛が勝手に不問に付したと内密に上奏する。

曹丕は詔(みことのり)を下して鮑勛を逮捕させ、廷尉(ていい)は法により懲役5年の刑が妥当と判断した。

これに対して三官(廷尉正〈ていいせい〉・廷尉監〈ていいかん〉・廷尉平〈ていいへい〉)は、法によれば罰金2斤で済ませるべきだと反論する。

曹丕はひどく怒り、三官を逮捕して刺姦(しかん。官名)に引き渡すよう命じた。

太尉(たいい)の鍾繇(しょうよう)、司徒(しと)の華歆(かきん)、鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)の陳羣に加え、侍中の辛毗(しんぴ)、尚書の衛臻(えいしん)、守廷尉(しゅていい)の高柔(こうじゅう)らはみな、鮑勛の父である鮑信の功績を訴えて免罪を求めたものの、曹丕は許さなかった。

こうして鮑勛は処刑されたが、それから20日して曹丕も崩じた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると「鮑勛は家での行いが修まっていたうえ、清廉でよく施しをしたため、死去したとき財産が残っていなかった」ということです。

鮑勛の父の功績については、先に採り上げた鮑信の個別記事を見ていただきたいと思いますが、それは鮑信のおかげで曹操が命拾いをしたという大功でした。

鮑勛の諫言の仕方が曹丕のメンツをつぶすようなものだったのかもしれませんけど、父の大恩人に対する扱いとしてはだいぶ問題がありますね。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました