秦朗(しんろう)

【姓名】 秦朗(しんろう) 【あざな】 元明(げんめい)

【原籍】 新興郡(しんこうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第302話で初登場。
【演義】 第102回で初登場。
【正史】 登場人物。

曹操(そうそう)にかわいがられた連れ子

父は秦宜禄(しんぎろく)、母は杜氏(とし)。幼名は「阿蘇(あそ)」。秦秀(しんしゅう)という息子がいた。

198年、秦宜禄が呂布(りょふ)の使者として袁術(えんじゅつ)のもとに出向いた際、袁術は(下邳〈かひ〉に妻がいるのに)秦宜禄を漢王朝(かんおうちょう)の一族の娘と結婚させてしまう。このとき杜氏は下邳で留守をまもっていた。

同年12月、曹操が下邳を陥して呂布を処刑すると、杜氏の美貌を見て側室に加えた。秦朗は杜氏の連れ子として曹操のもとで養育され、非常にかわいがられたという。

やがて秦朗は諸侯の間を遊び歩くようになったものの、曹操の時代(220年以前)や曹丕(そうひ)の時代(220~226年)にとがめられることはなかった。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと秦朗は宮廷の役職に就く。そして「驍騎将軍(ぎょうきしょうぐん)・給事中(きゅうじちゅう)」となり、曹叡が出かけるたびにお供した。

このころ曹叡は犯罪の摘発に関心を持ち、微罪でも処刑することがよくあった。だが秦朗は諫めようとせず、人材を推挙したこともなかった。曹叡のほうも彼を気楽な相談相手とし、幼名の「阿蘇」と呼び寵愛。しばしば金品を下賜したうえ都に大きな屋敷まで建ててやる。

みな秦朗が無能だと知ってはいたが、曹叡に親近していることから多くの賄賂を贈った。そのため秦朗の財産は公侯に匹敵するほどになったという。

233年、曹叡の詔(みことのり)を受け、秦朗は鮮卑(せんぴ)の軻比能(かひのう)および歩度根(ほどこん)の討伐にあたる。

238年、曹叡が病床に就くと、初め燕王(えんおう)の曹宇(そうう)を「大将軍(だいしょうぐん)」に任じ、夏侯献(かこうけん)・曹爽(そうそう)・曹肇(そうちょう)・秦朗らとともに政治を補佐させようとした。

ところが、中書監(ちゅうしょかん)の劉放(りゅうほう)や中書令(ちゅうしょれい)の孫資(そんし)の暗躍により、結局は曹爽と司馬懿(しばい)がその任にあたることになる。秦朗・曹宇・曹肇・夏侯献らは屋敷へ帰されてしまった。なお、その後の秦朗については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『献帝伝(けんていでん)』や魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』。さらに習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』によるもの。

秦朗の母である杜氏の美貌は、あの関羽(かんう)をも引きつけたようで……。『献帝伝』には、曹操が劉備(りゅうび)らと下邳で呂布を包囲していたとき、「秦宜禄の妻(杜氏)を娶りたい」と、関羽が何度も曹操に頼んだという記事がありました。

いったん曹操はこれを許したのですが、下邳の攻略後に杜氏を迎え、そのまま自分の側室にしてしまったのでした。

ちなみに『魏略』では、秦朗が孔桂(こうけい)とともに「佞倖(ねいこう。こびへつらうこと)編」に収録されているとのことです。

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