韓遂(かんすい) ※あざなは文約(ぶんやく)

【姓名】 韓遂(かんすい) 【あざな】 文約(ぶんやく)

【原籍】 金城郡(きんじょうぐん)

【生没】 ?~215年(?歳)

【吉川】 第041話で初登場。
【演義】 第010回で初登場。
【正史】 登場人物。

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30年以上にわたり、涼州(りょうしゅう)近辺で勢力を保つ

父母ともに不詳。息子がいたことがうかがえるものの、名は出てこない。ほかに閻行(えんこう)に嫁いだ娘(末娘とある)がいた。

184年11月、湟中(こうちゅう)の義従胡(ぎじゅうこ)の北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)が、先零羌(せんれいきょう)と反乱を起こす。このとき韓遂は、辺章(へんしょう)とともに軍師を務めた。

彼らの反乱軍は、護羌校尉(ごきょうこうい)の伶徴(れいちょう)や金城太守(きんじょうたいしゅ)の陳懿(ちんい)を攻めて殺害した。

翌185年(186年とも)、韓遂らは朝廷の討伐軍に敗れ、涼州へ逃亡する。

187年、反乱軍内で仲間割れが起こると、韓遂は、辺章や北宮伯玉らを殺害して隴西(ろうせい)を包囲した。

同年4月、討伐に来た涼州刺史(りょうしゅうしし)の耿鄙(こうひ)を大破し、馬騰(ばとう)とともに王国(おうこく)を首領に推し立て、漢陽郡(かんようぐん)へ進攻。漢陽太守の傅燮(ふしょう)を戦死させた。

192年、馬騰とともに朝廷に降伏し、軍勢をひきいて長安(ちょうあん)へ赴く。韓遂は鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)に任ぜられて、涼州へ帰ることになり、馬騰は征西将軍(せいせいしょうぐん)に任ぜられて、郿(び)に駐屯することになった。

194年3月、馬騰とともに、長平観(ちょうへいかん)で郭汜(かくし)や樊稠(はんちゅう)らと戦ったものの大敗。

211年3月、曹操(そうそう)が鍾繇(しょうよう)に張魯(ちょうろ)の討伐を命ずる。その際、夏侯淵(かこうえん)らにも、河東(かとう)に出て鍾繇と合流するよう命じた。

この動きに対して、関中(かんちゅう)にいた馬超(ばちょう。馬騰の息子)が疑心を抱く。韓遂は馬超と協力し、楊秋(ようしゅう)・李堪(りかん)・成宜(せいぎ)らとともに反乱を起こした。

曹操は曹仁(そうじん)を遣わして討伐にあたらせ、馬超らは潼関(とうかん)に陣取る。同年7月には曹操も到着し、潼関を挟んで対峙(たいじ)した。

馬超の活躍により、曹操を討ち取る寸前まで追い詰めるも、やがて曹操の策(韓遂との単身での会見や手紙を用いたもの)にかかり、韓遂は馬超から疑いを持たれることになった。

同年9月、渭南(いなん)で曹操軍に大破され、馬超とともに涼州へ逃走。この戦いで李堪と成宜らが斬られ、楊秋は安定(あんてい)へ奔った。

214年、韓遂は金城へ移り、氐族(ていぞく)の王である千万(せんばん)の部落に入る。そして羌族の1万余騎をひきい、曹操配下の夏侯淵と略陽(りゃくよう)で戦ったものの、散々に討ち破られて西平(せいへい)へ逃走した。

翌215年、韓遂は、西平や金城を占拠していた麴演(きくえん)と蔣石(しょうせき)らに殺害され、その首が曹操のもとに届けられたという。なお韓遂の死については、病死とするものなど異説もある。

管理人「かぶらがわ」より

韓遂の父がよくわかりません。

211年の関中を巡る韓遂らと曹操の戦いにおいて、曹操が韓遂の求めに応じて馬上で会見した際、わざと他愛のない話をすることで、馬超が韓遂に疑いを抱くよう仕向ける策を用いていました。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)では、「曹操は韓遂の父と同年(同じ年に推挙されたという意味か)の孝廉(こうれん)であるうえ、韓遂と同じ時期に旗揚げした仲間だった」という一文がありました。

ですが、同じく『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によると、韓遂は215年に亡くなったとき、70余歳だったということです。

もしこの記事が正しいのであれば、韓遂は145年前後の生まれで、曹操より10歳ほど年上になります。

曹操が20歳で孝廉に挙げられ、郎(ろう)となったのは174年のこと。韓遂と同年の孝廉ならわかりますけど、韓遂の父と同年の孝廉というのはどうなのでしょうか?

このあたり『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)では、「年齢は韓遂のほうが曹操より上だったが、ふたりは同じ年に孝廉に推挙された仲間同士だった」とされていました。こちらの解釈のほうがつじつまが合っている気がします。

ただ吉川『三国志』(第185話)では、曹操が韓遂の父とともに孝廉に挙げられ、若いころはいろいろとお世話になった、などと話しているうえ、韓遂が(この211年時点で)40歳だと答えているのですよね。

それなら、韓遂は172年生まれということなの? 『典略』の話は何なの? となってしまう。

『三国志演義』(第59回)でも同じようなことになっていて、曹操は韓遂の父と同年に孝廉に推挙され、曹操が韓遂の父を、実の叔父のように尊敬していた、などと話しており、やはり年齢を尋ねられた韓遂が、40歳になったと答えています。

韓遂の父が、相当な高齢で孝廉に推挙されたというケースも考えられるのか? それとも、この両者では韓遂を若く設定しているだけなのか? どうもすっきりしません。

ちなみに史実の曹操は、211年時点では57歳です。韓遂自身より、その父の扱いばかりが気になってしまいました。

いずれにせよ、吉川『三国志』、『三国志演義』とも、韓遂・馬超・曹操を絡めた話の展開はうまくできていると思います。

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