邵悌(しょうてい)

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【姓名】 邵悌(しょうてい) 【あざな】 元伯(げんぱく)

【原籍】 陽平郡(ようへいぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第115回で初登場。
【正史】 登場人物。

鍾会(しょうかい)の蜀(しょく)行きに反対

父母ともに不詳。

263年秋、曹奐(そうかん)の詔(みことのり)が下り、征西将軍(せいせいしょうぐん)のトウ艾(とうがい。登+阝)と雍州刺史(ようしゅうしし)の諸葛緒(しょかつしょ)が3万余ずつの軍勢をひきいて出撃。

トウ艾は甘松(かんしょう)や沓中(とうちゅう)で蜀の姜維(きょうい)と全面的に対峙(たいじ)し、諸葛緒は武街(ぶがい)や橋頭(きょうとう)へ向かい、姜維の退路を断つことになった。

このとき鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の鍾会も別に10余万の軍勢をひきい、斜谷(やこく)や駱谷(らくこく)から蜀の地へと進む。

邵悌は「西曹属(せいそうぞく)」を務めていたが、鍾会の派遣を聞くと大将軍(だいしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)に言った。

「鍾会は独り身ですから(出征時に都に残していく)人質を気にかけないと思います。ほかの者を行かせたほうがよいでしょう」

すると司馬昭は、反対が多い中で蜀討伐に賛成している鍾会を起用する意図を明かしたうえ、もし蜀を滅ぼした後、鍾会が悪事を行ったとしても、一族を滅亡させるだけのことだと話す。

同年11月、トウ艾が成都(せいと)に向かうと、蜀の劉禅(りゅうぜん)は戦うことなく降伏。

同年12月、トウ艾は「太尉(たいい)」に、鍾会は「司徒(しと)」に、それぞれ昇進する。

鍾会はひそかに逆心を抱いており、トウ艾が専断権を発動したことに付け込み、彼に反逆の様子が見えると密告。これを受け司馬昭は軍勢をひきいて西へ向かおうとする。

そこで邵悌は再び意見を述べた。

「鍾会のひきいる軍勢はトウ艾の5、6倍はございます。ただ鍾会にトウ艾を捕らえるようお命じになればよろしいわけで、ご自身が向かわれるほどのことではないでしょう」

それでも司馬昭は「私が長安(ちょうあん)に入れば、おのずと片がつくだろう」と言い、10万の軍勢をひきいて出発。この軍勢が長安に着いたころ、すでに鍾会は成都で死んでおり、司馬昭の予想どおりになった。なお、その後の邵悌については記事がない。

翌264年1月、鍾会は降将の姜維とともに謀反を起こしたものの失敗し、魏の兵士に殺された。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・鍾会伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『咸熙元年百官名(かんきがんねんひゃっかんめい)』によるもの。

少ない登場箇所では邵悌を評価しているのか、司馬昭を持ち上げつつ批判しているのか、よくわからないところがありましたけど……。独身の将軍はいろいろな角度から疑いを持たれやすかったのかと、そちらのほうに興味を引かれました。

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