辛憲英(しんけんえい)

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【姓名】 辛憲英(しんけんえい) 【あざな】 ?

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)陽翟県(ようたくけん)

【生没】 191~269年(79歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第107回で初登場。
【正史】 登場人物。

先のことを見通していた賢婦

父は辛毗(しんぴ)だが、母は不詳。辛敞(しんしょう)は弟。

辛憲英は泰山(たいざん)の羊耽(ようたん)に嫁ぎ、息子の羊シュウ(ようしゅう。王+秀)を儲けた。彼女は聡明(そうめい)で優れた見識を備えていたという。

初め曹丕(そうひ)は弟の曹植(そうしょく)と後継者の地位を争い、217年になって「王太子(おうたいし)」に立てられた。このとき曹丕は辛毗の首に抱きついて喜んだが、父からその話を聞いた辛憲英は嘆息して言った。

「太子さまは、いずれ君主に代わって宗廟(そうびょう)や社稷(しゃしょく。土地と五穀の神。国家)を主宰される御方。君主になることを憂えねばならないはずですし、国家を主宰することへの恐れを抱かねばならないはずです」

「ところが、憂えるべきなのに喜んでおられます。これでどうして長久を保ち得ることができましょう? 魏(ぎ)は隆盛とはなりませぬか……」

のち弟の辛敞が、大将軍(だいしょうぐん。238~249年)の曹爽(そうそう)の「参軍(さんぐん)」となる。

249年、曹芳(そうほう)が「高平陵(こうへいりょう。曹叡〈そうえい〉の陵)」に参拝し曹爽らも随行。この機に太傅(たいふ)の司馬懿(しばい)がクーデターを起こし、曹爽一族の誅滅に動く。

洛陽(らくよう)の城門は閉鎖されたが、大将軍司馬(だいしょうぐんしば)の魯芝(ろし)は曹爽配下の兵をひきい、城門を攻め破り城外の曹爽と合流する。このとき魯芝は辛敞に声をかけ、一緒に行こうと誘う。辛敞は判断に迷い、姉の辛憲英に相談した。

すると辛憲英は、司馬懿と曹爽の行いや器量を比べて説き聞かせ、今回は曹爽が処刑されるだけのことだと述べる。そのうえで、やはり魯芝らとともに城を出て、部下として曹爽のために努めるべきだと勧めた。結局、曹爽らは処刑されたものの、辛敞は処罰を免れた。

263年秋、曹奐(そうかん)の詔(みことのり)が下り、征西将軍(せいせいしょうぐん)のトウ艾(とうがい。登+阝)と雍州刺史(ようしゅうしし)の諸葛緒(しょかつしょ)が3万余ずつの軍勢をひきいて出撃。

トウ艾は甘松(かんしょう)や沓中(とうちゅう)で蜀(しょく)の姜維(きょうい)と全面的に対峙(たいじ)し、諸葛緒は武街(ぶがい)や橋頭(きょうとう)へ向かい、姜維の退路を断つことになった。

このとき鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の鍾会(しょうかい)も別に10余万の軍勢をひきい、斜谷(やこく)や駱谷(らくこく)から蜀の地へと進む。

辛憲英は従子(おい)の羊祜(ようこ)に尋ね、鍾会が西方へ向かったのは蜀を滅ぼすためだと聞くと、こう言った。

「鍾会は事にあたり勝手な振る舞いが目立ちます。いつまでも臣下として仕える者の態度ではありません」

のち鍾会は、辛憲英の息子の羊シュウを「参軍」にしたいと要請。辛憲英は心配し、羊シュウも大将軍の司馬昭(しばしょう)に強く辞退を申し出たが聞き入れてもらえなかった。こうして羊シュウは鍾会に付き従うことにはなったが、自分の身を全うすることができたという。

翌264年1月、鍾会は降将の姜維とともに謀反を起こしたものの失敗し、魏の兵士に殺された。

269年、辛憲英は79歳で死去した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・辛毗伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』、および(辛憲英の)外孫の夏侯湛(かこうたん)が書いたという伝記などによるもの。

辛憲英は頼りになる娘であり、姉であり、妻であり、母であり、季母(おば)でした。記事として残る話はごく一部でしょうから、彼女が羊氏や辛氏の一族の発展に大いに寄与したのは間違いないでしょうね。

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