曹楷(そうかい)A ※曹彰(そうしょう)の息子

【姓名】 曹楷(そうかい) 【あざな】 ?

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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曹彰(そうしょう)の息子、任城王(じんじょうおう)

父は曹彰だが、母は不詳。

息子の曹悌(そうてい)は曹礼(そうれい)の跡継ぎとなり、曹温(そうおん)は曹邕(そうよう)の跡継ぎとなった。

また『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』によると――。

曹叡(そうえい)の養子だった曹芳(そうほう)および曹詢(そうしゅん)は、曹楷の息子ともいう。

223年、曹楷は曹彰が薨去(こうきょ)したため跡を継ぎ、中牟王(ちゅうぼうおう)に移封された。

翌224年に任城県王に移封され、232年に改めて任城王とされた。この際の封邑(ほうゆう)は5県2,500戸だった。

235年、中尚方(ちゅうしょうほう。宮中で使う器物を製作する役所)に人を遣り、禁止されている器物を作らせた罪で2千戸を削られた。

246年に済南王(せいなんおう)に移封され、封邑は3千戸だった。

その後、正元(せいげん)年間(254~256年)と景元(けいげん)年間(260~264年)の初めに続けて加増され、4,400戸となった。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書・任城威王彰伝(じんじょういおうしょうでん))の裴松之注によると、「曹楷は晋(しん)の泰始(たいし)年間(265~274年)の初めに崇化少府(すうかしょうふ)を務め、『百官名(ひゃっかんめい)』に記載がある」とのことです。

関連記事が少ないので、いくつか疑問が残りました。

232年の任城王の時に2,500戸で、235年に2千戸を削られたのなら残り500戸だけになるはず。そのまま246年の済南王への移封まで放っておかれたのだろうか? とか。

曹悌と曹温の兄弟の順番がわからないとか。まぁ兄弟の順番がわからないというのは、『三国志』ではよくあることなんですけど……。

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