張就(ちょうしゅう)

【姓名】 張就(ちょうしゅう) 【あざな】 ?

【原籍】 燉煌郡(とんこうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・閻温伝(えんおんでん)』に付された「張就伝」あり。

忠義をわきまえた父への手紙

父は張恭(ちょうきょう)だが、母は不詳。息子の張斅(ちょうがく)は跡継ぎ。

黄河(こうが)の西の地域で動乱が起こり、都との交通が途絶していたころ、燉煌太守(とんこうたいしゅ)の馬艾(ばがい)が在職のまま亡くなり、役所には「丞(じょう。副長官)」もいなかった。

このとき父の張恭は「功曹(こうそう)」を務めていたが、学問があって品行も優れていたため、郡民から推され「長史(ちょうし)」の事務を代行することになる。張就は父の命を受けて曹操(そうそう)のもとへ赴き、新たな太守の任命を求めた。

このころ酒泉(しゅせん)の黄華(こうか)や張掖(ちょうえき)の張進(ちょうしん)は、それぞれ郡を不法に占拠しており、張恭と力を合わせたいと考えていた。

張就は酒泉まで戻ってきたところで黄華に捕らえられ、白刃をもって強迫されたものの、あくまで心変わりしなかった。

彼はひそかに父に手紙を送って述べる。

「父上は燉煌の人々をひきいて励まされ、その忠義は歴然としています。私も困難な状況にあるからといって、この忠心を捨てましょうや」

「むかし(中山〈ちゅうざん〉を攻めた)楽羊(がくよう)は(城内にいたわが子を殺されて肉のスープを送り付けられたとき)それを食べ、(王莽〈おうもう〉に敵対した)李通(りとう)は一族を滅ぼした(滅ぼされても翻意しなかった)とか。国を治める臣下は妻子のことを気にかけるものでしょうか」

「まもなく大軍が到着しますので、父上は速やかに兵を出され敵を牽制(けんせい)すべきです。どうか下々の者が持つような愛情に引かれて、あの世で私が恨みを抱くことのないようにしてください」

「楽羊」は楽毅(がくき)の先祖。戦国(せんごく)時代の魏の将軍(しょうぐん)。

「王莽」は前漢(ぜんかん)を簒奪(さんだつ)し新(しん)を建国した人物。

「李通」は後漢の光武帝(こうぶてい。劉秀〈りゅうしゅう〉)に仕えた功臣。

手紙を受け取った張恭は危難を知ったが、あえて息子のことを顧慮しなかった。

すぐに従弟の張華(ちょうか)を遣り、酒泉郡内の沙頭(さとう)および乾斉(けんせい)の両県を攻撃させる。そのうえ別の部隊を張華の後に続かせ、さらに精鋭の騎兵200を遣り、こちらへ向かっている官吏を出迎えさせた。

まず彼らは東へ行き、酒泉の北の砦(とりで)に沿いながら真っすぐ張掖の北の黄河に出て、新任の太守である尹奉(いんほう)を迎え入れようとした。

張進は黄華の助力を待っており、黄華も救援する気でいたが、西方にいる張恭の兵に背後を急襲されないかと心配して動けない。やがて黄華は金城太守(きんじょうたいしゅ)の蘇則(そそく)に降伏を願い出たため、張就は無事に戻り、尹奉も着任できた。

221年、曹丕(そうひ)は詔(みことのり)を下して褒めたたえ、張恭を「関内侯(かんだいこう)」に封じ「西域戊己校尉(せいいきぼきこうい)」に任ずる。

数年後、張恭は朝廷に召し還され、近侍の官位を授けられて張就と交代することになった。しかし張恭は燉煌まで来ると、重病を理由に固辞する。

その後、張恭は曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)に死去し、「執金吾(しつきんご)」の官位を追贈された。

そして張就は「金城太守」となり、父子ともども西州でその名をたたえられたという。

管理人「かぶらがわ」より

張恭の記事とカブったところも多かったですが、張就の見せ場は父に送ったという手紙でしょう。まぶしいまでの忠義。雍涼(ようりょう)出身の人って、都にいる高官たちとは何か違いますよね。

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