孫奐(そんかん) ※あざなは季明(きめい)

【姓名】 孫奐(そんかん) 【あざな】 季明(きめい)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 195~234年(40歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫静伝(そんせいでん)』に付された「孫奐伝」あり。

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孫静の息子

父は孫静だが、母は不詳。孫暠(そんこう)・孫瑜(そんゆ)・孫皎(そんこう)は兄で、孫謙(そんけん)は弟。

息子の孫承(そんしょう)は跡継ぎ。孫壱(そんいつ)と孫封(そんほう)も同じく息子。ほかに呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)に嫁いだ娘もいた。

219年に兄の孫皎が亡くなると、孫奐は代わって配下の軍勢を指揮し、揚武中郎将(ようぶちゅうろうしょう)として江夏太守(こうかたいしゅ)を兼ねた。

その任にあったのは1年だったが、孫皎のやり方を引き継ぎ、劉靖(りゅうせい)・李允(りいん)・呉碩(ごせき)・張梁(ちょうりょう)に加えて閭挙(りょきょ)らを礼遇した。

孫奐は当意即妙の受け答えこそできなかったものの、効率よく仕事をこなしたために兵士や民衆から称賛された。

226年に孫権(そんけん)が魏(ぎ)の石陽(せきよう)を攻めると、孫奐は部将の鮮于丹(せんうたん)に命じ、5千の兵をひきいて淮水(わいすい)流域の通路を遮断する。

そのうえで、自ら呉碩や張梁らとともに5千の兵をひきいて先鋒となり、高城(こうじょう)を降して魏の3人の将軍を捕らえた。

帰還を前に、孫権は全軍に整列を命じて閲兵したが、孫奐の隊伍が整っていることに感心する。孫奐は揚威将軍(よういしょうぐん)に任ぜられ、沙羡侯(さいこう)に封ぜられた。

孫奐も孫皎と同じく学者を好み、部曲(ぶきょく。私兵)の子弟に学問を受けさせた。後にこの中から、(呉の)朝廷に仕えた者が数十人も出た。

234年に40歳で死去。息子の孫承が跡を継ぎ、昭武中郎将(しょうぶちゅうろうしょう)として兵をひきいた。

管理人「かぶらがわ」より

この孫奐も、兄の孫瑜や孫皎と同じく文武の才を兼ね備えた人物だったようです。

上で挙げた226年の石陽攻めでは、魏の文聘(ぶんぺい)が石陽を固守したため、孫権は20余日で包囲を解いて引き揚げることになりました。

そして帰還を前にした閲兵の際に、孫権が孫奐の隊伍を見て感嘆して言ったとし、「私はもともと孫奐がのろまで気の利かないことを心配していたが、この様子を見ると、諸将の中にもかなう者は少ないだろう。もう心配ない」とありました。

孫奐は生まれながらの天才ではなく、相当な努力家だったらしい。

それなのに、彼の息子たちはみな早く亡くなることになりますし。娘たちの夫である滕胤と呂拠も孫綝(そんりん)に誅殺されたりと、すっきりしない最期を迎えています。

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