孫ワン(そんわん。雨+單) ※あざなは莔(きつ)

【姓名】 孫ワン(そんわん。雨+單) 【あざな】 莔(きつ)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~265年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。

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孫休(そんきゅう)の息子

父は孫休だが、母は不詳。孫コウ(そんこう。雷+大)・孫壾(そんもう)・孫ホウ(そんほう。亠+先+攴)は弟。

孫ワンは262年8月に皇太子に立てられた。

264年、孫休は病が重くなり話せなくなると、字を書いて丞相(じょうしょう)の濮陽興(ぼくようこう)を呼び、孫ワンに彼の前で拝礼するよう命じた。孫休は濮陽興の腕(かいな)を取り、孫ワンを指さして後事を託した。

ところが同年7月に孫休が崩ずると、濮陽興は左将軍(さしょうぐん)の張布(ちょうふ)と相談し、孫晧(そんこう)を迎えて帝位に即けた。

同年10月、孫ワンは孫晧から豫章王(よしょうおう)に封ぜられたが、翌265年には呉郡の小城に幽閉され、ほどなく殺害された。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

孫ワンら兄弟の命名については、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』に、孫休の詔(みことのり)が載せられていました。

それによると孫休は「師友は別にしても、父兄や自分自身が立派すぎる名やあざなを付けるという風潮を、つねづね笑ってきた」とあり、「そうしたことに配慮しつつ、自ら4人の息子たちの名とあざなを定めた」のだということでした。

「孫ワンの場合は、名のワン(雨+單)の音を湖水湾澳(こすいわんいく)というときの『湾』と同じだ」とし「あざなの莔の音は迄今(きっきん)というときの『迄』と同じだ」と説明しています。

また「これらの文字はみな世に用いられているものではなく、ことさら古い文字から取ったものを組み合わせて作ったものだ」とも言い、「二字名にしないだけではなく、それぞれが独自の文字であるため、それを避けて使わないことも容易であろう」として、こうした自分の考えを広く天下に伝えるよう命じています。

しかし裴松之は、孫休が類例のない文字を作り出し、典拠のない音を定めたことを「前代の賢者たちの明らかな教えに反する」と批判したうえ、「後世にその愚かさを笑われることになったのも、もっともなことだ」と述べていました。

とはいえ、この記事からは当時の命名への意識が垣間見え、興味深いものがありました。孫休は古典の研究に没頭した人でもあるので、名やあざなにも強いこだわりがあったのでしょう。

現代では名を呼ぶことを避けたりはしませんけど……。子どもによい名を付けようというところだけを見れば、当時よりその傾向が強くなっているのかもしれません。

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