【姓名】 孫登(そんとう) 【あざな】 子高(しこう)
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 209~241年(33歳)
【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第073回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫登伝』あり。
呉(ご)の孫権(そんけん)の息子、宣太子(せんたいし)
父は孫権だが、母は不詳。生母の身分が卑しかったため、孫権の側室だった徐氏(じょし)に養育されたという。
孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は、みな異母弟。孫魯班(そんろはん)と孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ姉妹もいた。
孫璠(そんはん)・孫英(そんえい)・孫希(そんき)という3人の息子がいた。
221年、孫権が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から呉王(ごおう)に封ぜられると、孫登も東中郎将(とうちゅうろうしょう)に任ぜられて万戸侯(ばんここう)に封ぜられたが、病気を理由に辞退した。
同年中に孫権の王太子に立てられ、師傅(しふ。教育と補佐にあたる守り役)と賓友(友人として付き添う役)が置かれた。
このとき諸葛恪(しょかつかく)・張休(ちょうきゅう)・顧譚(こたん)・陳表(ちんぴょう)らが選ばれて東宮(とうぐう。太子の宮殿)に入ることになった。
229年に孫権が帝位に即くと、孫登は皇太子に立てられ、諸葛恪が左輔(さほ)に、張休が右弼(ゆうひつ)に、顧譚が輔正(ほせい)に、陳表が翼正都尉(よくせいとい)に、それぞれ任ぜられて「太子四友」と呼ばれた。
謝景(しゃけい)・范慎(はんしん)・刁玄(ちょうげん)・羊衜(ようどう)らも賓客として迎えられ、東宮は多士済々と評判になった。
同年9月、孫権が武昌(ぶしょう)から建業(けんぎょう)へ遷都する。この際、上大将軍(じょうだいしょうぐん)の陸遜(りくそん)が孫登の補佐に付き、武昌の守りや宮殿と役所の管理にあたった。
232年1月、弟で建昌侯(けんしょうこう)の孫慮が死去すると、孫権は悲しみのあまり十分な食事を取ることができなくなった。孫登は武昌から昼夜兼行で駆けつけて孫権に目通りした。
孫登は父の様子に涙しつつも、礼の節度を越えて悲しまぬよう諫めた。孫権もその言葉を聞き入れて食事の量を増やした。
10日ほど滞在した後、孫登は父母への孝養を尽くしたいと述べ、孫権の許しを得て建業に留まることにした。
234年、孫権が魏の合肥新城(ごうひしんじょう)へ遠征すると、孫登は建業に残って守りを固め、後方の処理をすべて任された。
このころ穀物の不作が続き、盗賊が少なくなかった。孫登は上表して禁令を定めたが、これは盗賊を防ぐための要点をよく押さえたものだった。
241年5月に33歳で薨去(こうきょ)し、宣太子と諡(おくりな)される。孫登は死に臨んで心のこもった上疏を行い、孫権の悲しみを誘った。
息子の孫璠と孫希は早くに亡くなっていたため、次子の孫英が跡を継ぎ、呉侯に封ぜられた。
初め孫登は句容(こうよう)に葬られ、その傍らに園邑(えんゆう。墓守のための村)が置かれたが、3年後に蔣陵(しょうりょう。孫権の陵)に改葬されたという。
管理人「かぶらがわ」より
孫登は帝位を継ぐことなく亡くなったため、その事跡も多くは伝わっていません。それでも高い素養を備えた、心優しい人物だったことがうかがえます。
孫登の妃(きさき)としては、周瑜(しゅうゆ)の娘の周氏と芮玄(ぜいげん)の娘の芮氏の名が見えますが、このふたりの動静についてはわかりませんでした。
本伝には、孫登の人柄を表した以下のようなエピソードがいくつか見えています。
「孫登は狩猟に出かけるとき良田を遠く避け、農作物を踏みつけたりしないよう気をつけ、休憩する際も人家から離れた場所を選んだ」
「またあるとき、馬で外出した孫登のそばを弾丸がかすめたことがあった」
「側近が犯人を捜したところ、手に弾弓を持ち、腰に弾丸をぶら下げている者が見つかった。みなこの者の仕業に違いないと思ったが、その者は自分がやったことだと認めなかった」
「側近は鞭(むち)で打とうとしたが、孫登は許さなかった。そこで自身をかすめた弾丸を捜させ、この者が持っていた弾丸と比べてみたところ、まったく別の物だった。こうしてこの者は釈放された」という話があったり――。
「またあるとき、水を入れるための金製のたらいが無くなったことがあった」
「犯人は側近の者だったが、孫登は罰を与えるに忍びず、呼びつけて叱責した後、暇(いとま)をやって家に帰らせた。ほかの側近には、このことを他言しないよう命じた」という話もありました。
さらに本伝には、孫登が養育してもらった徐氏に対し、ひとかたならぬ恩義を感じていた様子も書かれています。
221年に孫権は本拠地を武昌へ移しますが、徐氏は嫉妬深いということで呉郡に留められました。この後、歩氏(ほし)が孫権の寵愛を集めます。
孫登は歩氏からの賜り物を辞退せず、丁寧にお辞儀をして受け取ったそうです。一方、呉郡の徐氏の使いが来て衣服を贈られると、必ず沐浴(もくよく)し、身を清めてから着たのだとか。
また229年に、孫登が皇太子に立てられることになった際の孫権とのやり取りでは、「孫登が孫権に『私を皇太子に立てるおつもりなら、まずその母を皇后に立てられるべきです』と述べた」とあり、孫権が孫登に母の所在を尋ねると、「孫登は『呉の街におります』と答え、孫権も思わず黙り込んでしまった」のだと。
結局、徐氏が皇后に立てられることはありませんでした。
そして本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』には、「孫登は、孫権が弟の孫和をかわいがっているのを見ると、孫和を敬愛して兄に接するような応対をし、いつも太子の位を譲りたいと考えていた」ともありました。
孫登は長男でありながら、俺が俺がというところのない人だったのですね。
死に臨んで行ったという上疏の中でも「孫和を皇太子に立ててほしい」と述べたり、諸葛恪・顧譚・謝景・范慎・華融(かゆう)・羊衜・刁玄・裴欽(はいきん)・蔣脩(しょうしゅう)・虞翻(ぐはん)の名を挙げ、自分の属官として仕えた者たちの長所を伝えています。
ただ、虞翻は233年に亡くなっているはずなので、ここで名が出てくるのはピンときません。すでに亡くなっているものの、彼にもお世話になりました的な言及だったのでしょうか?
このほかにも呉の重臣たち、まず陸遜の名を挙げ、その能力や態度を高く評価。
続いて諸葛瑾(しょかつきん)・歩騭(ほしつ)・朱然(しゅぜん)・全琮(ぜんそう)・朱拠(しゅきょ)・呂岱(りょたい)・吾粲(ごさん)・闞沢(かんたく)・厳畯(げんしゅん)・張承(ちょうしょう)・孫怡(そんい)の名を挙げ、「国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている者」として評価しています。
ここで挙げられた人物には特に矛盾を感じませんが、諸葛瑾は孫登と同年の241年に亡くなっていますね。
自身の寿命は天に定められたものだと、納得していた様子の孫登。最期まで忠孝を貫く姿勢が立派です。
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