夏侯淵(かこうえん) ※あざなは妙才(みょうさい)

【姓名】 夏侯淵(かこうえん) 【あざな】 妙才(みょうさい)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~219年(?歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・夏侯淵伝』あり。

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曹操(そうそう)の挙兵時から活躍した名将、諡号(しごう)は愍侯(びんこう)

父母ともに不詳。夏侯惇(かこうとん)は族兄(いとこ。一族の同世代の年長者)。妻は曹操の妹。

息子の夏侯衡(かこうこう)は跡継ぎで、夏侯霸(かこうは)・夏侯称(かこうしょう)・夏侯威(かこうい)・夏侯栄(かこうえい)・夏侯恵(かこうけい)・夏侯和(かこうか)も同じく息子。

まだ曹操が故郷(譙県)にいたころ、県令(けんれい)に関わる事件で罪を得たことがあった。このとき夏侯淵が身代わりとなって重い罪を引き受けたものの、曹操にうまく助け出された。

184年、曹操が挙兵すると、夏侯淵は別部司馬(べつぶしば)・騎都尉(きとい)に任ぜられて随行し、その後は陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)や潁川太守(えいせんたいしゅ)を務める。

200年、袁紹(えんしょう)との官渡(かんと)の戦いには行督軍校尉(こうとくぐんこうい)として参加し、兗州(えんしゅう)・豫州(よしゅう)・徐州(じょしゅう)の兵糧を取り仕切った。曹操軍は兵糧が乏しかったが、夏侯淵が絶え間なく輸送に努めたため勢いを盛り返すことができた。

206年、昌豨(しょうき)が謀反を起こす。初め曹操は于禁(うきん)に鎮圧を命じたものの苦戦した。

そこで命を受けた夏侯淵が加勢に赴き、敵の屯営を10か所余り撃破。昌豨は于禁のもとに降伏してくる。帰還した夏侯淵は功により典軍校尉(てんぐんこうい)に任ぜられた。

済南(せいなん)と楽安(らくあん)の黄巾賊(こうきんぞく)の徐和(じょか)および司馬俱(しばく)らが城を攻めて県の高官を殺害すると、夏侯淵は泰山(たいざん)・斉(せい)・平原(へいげん)の各郡の兵をひきいて攻撃。敵を散々に討ち破って諸県を平定し、徐和を斬り殺した。

209年、行領軍(こうりょうぐん)に任ぜられる。曹操が孫権(そんけん)討伐から帰還すると、夏侯淵は諸将を指揮して廬江(ろこう)で雷緒(らいしょ)を撃破した。

211年、行征西護軍(こうせいせいごぐん)となり、徐晃(じょこう)とともに太原(たいげん)の賊徒を攻撃する。このとき20余りの屯営を攻め落とし、賊の頭目の商曜(しょうよう)を斬ったうえ根城を破壊した。

同年3月、曹操の韓遂(かんすい)・馬超(ばちょう)討伐に随行し、渭南(いなん)で戦う。また、朱霊(しゅれい)とともに隃糜(ゆび)と汧(けん)の氐族(ていぞく)を平定する。

同年10月、曹操と安定(あんてい)で合流し、楊秋(ようしゅう)を降す。

同年12月、曹操が安定から鄴(ぎょう)への帰途に就く。

翌212年、夏侯淵は行護軍将軍(こうごぐんしょうぐん)となり、朱霊や路招(ろしょう)らを指揮して長安(ちょうあん)に駐屯。南山(なんざん)の賊徒である劉雄鳴(りゅうゆうめい)を撃破し、配下の軍勢を降した。

さらにこの年、鄠(こ)にいた旧馬超勢力の梁興(りょうこう)を攻め、これを斬り殺す。功により博昌亭侯(はくしょうていこう)に封ぜられた。

翌213年、涼州刺史(りょうしゅうしし)の韋康(いこう)が冀県(きけん)で馬超に包囲されると、夏侯淵が救援に向かう。

ところが到着前に韋康は敗れており、夏侯淵は冀県から200里余りの所で馬超と交戦したものの勝てなかった。この際、汧の氐族が馬超に呼応して反乱を起こしたため、夏侯淵は軍勢を引き揚げた。

翌214年、趙衢(ちょうく)や尹奉(いんほう)らが馬超を討つ計画を立てると、姜叙(きょうじょ)が鹵城(ろじょう)で挙兵し、ふたりの動きに呼応した。

趙衢らは馬超をだまして姜叙の攻撃に向かわせ、出陣後に馬超の妻子を皆殺しにする。いったん馬超は漢中(かんちゅう)へ逃走したが、再び戻って祁山(きざん)を包囲した。

姜叙から救援要請が届くと、夏侯淵は曹操の指示を待たず、張郃(ちょうこう)に歩騎5千を付けて進発させ、自身は兵糧を監督しつつ後詰めとなる。

張郃が渭水(いすい)のほとりに着くと、馬超は交戦しないうちに逃走。夏侯淵が到着したときは、すでに諸県が降伏した後だった。

夏侯淵は顕親(けんしん)にいた韓遂を攻めようとしたが、韓遂は逃走。兵糧を手に入れて略陽(りゃくよう)まで追撃する。

ここで諸将は略陽攻めを主張したが、夏侯淵は長離(ちょうり)にいる羌(きょう)の諸部族の討伐を優先。略陽には輜重(しちょう)を守る部隊を残し、軽装の歩騎をひきいて長離へ向かい、多数の羌族を斬り殺したり捕らえたりした。

韓遂の軍に加わっていた羌族は自分たちの部落へ戻り、韓遂も長離の救援に赴く。これは夏侯淵の思惑通りだった。

夏侯淵は士気を鼓舞し、城から出た韓遂軍を大破。略陽より軍を進めて興国(こうこく)を包囲する。氐王の千万(せんばん)は馬超のもとへ逃げ、残った軍勢は降伏した。

続いて夏侯淵は高平(こうへい)と屠各(とかく)を攻め落とし、食糧と牛馬を確保。この功により仮節(かせつ)となった。

同年10月、「河首平漢王(かしゅへいかんおう)」を自称していた宋建(そうけん)を討伐。1か月余りで枹罕(ふかん)を陥し、宋建と配下の官吏を斬り殺す。

夏侯淵は別に張郃を遣って河関(かかん)を平定させ、黄河(こうが)を渡り小湟中(しょうこうちゅう)へ進攻させる。河西(かせい)にいた羌の諸部族はことごとく降伏し、これにより隴右(ろうゆう。隴山以西の地域)の平定が成った。

216年、夏侯淵は300戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は800戸となった。長安に帰還後は下弁(かべん)にいる武都郡(ぶとぐん)の氐族や羌族を攻め、10万石(せき)以上の穀物を没収した。

先の215年に張魯(ちょうろ)を降すと、曹操は夏侯淵を行都護将軍(こうとごしょうぐん)に任じ、張郃や徐晃とともに巴郡(はぐん)の平定を命ずる。そして鄴へ戻る際、夏侯淵を征西将軍(せいせいしょうぐん)に任じて漢中の守備に残した。

218年、劉備(りゅうび)が陽平関(ようへいかん)に布陣すると、夏侯淵は諸将をひきいて防戦にあたり、両軍のにらみ合いが続く。

翌219年1月、夏侯淵は劉備軍の急襲を受けて陽平関で戦死。愍侯と諡(おくりな)され、息子の夏侯衡が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

兄貴分の夏侯惇と比べても、夏侯淵は戦功が多いです。本伝にはこのようにありました。

「それ(戦死)以前、しばしば戦勝を収める夏侯淵に、いつも曹操はこう戒めていた。『指揮官たる者、臆病なときもなくてはならぬ。勇気だけを頼みにしてはいけない。指揮官は当然、勇気を基本とすべきではあるが、行動に移すときは知略を用いよ。勇気に任せることしか知らなければ、ひとりの男の相手にしかなれぬぞ』」

曹操は夏侯淵の勇猛ぶりを高く評価しつつも、彼の行動が時に軽率であると注意を促していたのです。

また、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、夏侯淵は急襲を得意とし、いつも敵の不意を突いたため、軍中では「典軍校尉の夏侯淵、3日で500里、6日で1千里」と語り合ったそうです。

曹操から「準曹氏」とも言える扱いを受けていた夏侯氏ですが、夏侯淵といい、夏侯惇といい、ホントに頼れる存在でした。劉備でいうところの関羽(かんう。夏侯惇)や張飛(ちょうひ。夏侯淵)に似ている気もします。

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