【姓名】 史渙(しかん) 【あざな】 公劉(こうりゅう)
【原籍】 沛国(はいこく)
【生没】 ?~209年(?歳)
【吉川】 第075話で初登場。
【演義】 第019回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・夏侯惇伝(かこうとんでん)』に付された「史渙伝」あり。
曹操(そうそう)配下の近衛軍司令官、旗揚げ時から客分として同行
父母ともに不詳。息子の史静(しせい)は跡継ぎ。
史渙は韓浩(かんこう)とともに、忠義と武勇によって名があった。史渙は中領軍(ちゅうりょうぐん)まで、韓浩は中護軍(ちゅうごぐん)まで、それぞれ昇り、近衛軍の司令官となって列侯(れっこう)に封ぜられた。
★史渙はイマイチはっきりしないものの、韓浩は万歳亭侯(ばんざいていこう)に封ぜられたようだ。
若いころ史渙は任俠(にんきょう)の徒で、男らしい性格だった。
189年の曹操の旗揚げ時から客分として同行し、行中軍校尉(こうちゅうぐんこうい)に任ぜられる。討伐の際は諸将の監督にあたり、曹操の信頼を得て中領軍に転じた。
209年に死去し、息子の史静が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の記述はごく短く、上で挙げた史渙の経歴については、ほぼ裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によるものです。
また『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)には、以下のようにあります。
「199年4月、曹操が軍勢を進めて黄河(こうが)に臨んだ際、曹仁(そうじん)と史渙に黄河を渡らせ、眭固(けいこ)を攻めさせた」
このとき曹仁と史渙は犬城(けんじょう)で戦い、散々に討ち破って眭固を斬りました。
同じく『三国志』(魏書・武帝紀)には、以下のようにもありました。
「200年、袁紹(えんしょう)の輜重車(しちょうしゃ)が数千台もやってくると、曹操は荀攸(じゅんゆう)の計略を用い、徐晃(じょこう)と史渙に迎撃させた。ふたりは(故市〈こし〉において)これを散々に討ち破り、敵の輜重車をことごとく焼き払った」
この一件は、袁紹配下の許攸(きょゆう)が曹操に降る少し前の出来事ですが、何人もの伝に出てくるほどの大きな戦功でした。
韓浩の没年はわかりませんが、彼には215年の関連記事があります。209年に史渙が死去したとき、もちろん韓浩は存命でした。
ふたりとも曹操の近衛軍司令官ながら、中領軍は中護軍よりも格上ですから、史渙のほうが韓浩の先輩格なのでしょう。曹操に仕えたのも、だいぶ史渙が先ですしね。
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