諸葛靚(しょかつせい) ※あざなは仲思(ちゅうし)

【姓名】 諸葛靚(しょかつせい) 【あざな】 仲思(ちゅうし)

【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)陽都県(ようとけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第111回で初登場。
【正史】 登場人物。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

謀反人にされてしまった父と覚悟の別れ

父は諸葛誕(しょかつたん)だが、母は不詳。諸葛恢(しょかつかい)という息子がいた。

257年、魏(ぎ)の征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)だった諸葛誕が、司馬昭(しばしょう)の専制に抵抗するべく寿春(じゅしゅん)で挙兵。

このとき諸葛誕は、将軍(しょうぐん)の朱成(しゅせい)や長史(ちょうし)の呉綱(ごこう)らとともに末子の諸葛靚を呉(ご)へ遣わし、孫亮(そんりょう)に救援を求める。

呉は要請に応え、将軍の全懌(ぜんえき)・全端(ぜんたん)・唐咨(とうし)・王祚(おうそ)・文欽(ぶんきん)らと3万の軍勢を派遣したが、翌258年、諸葛誕は城外の包囲陣の突破を試みた末に戦死した。

一方、諸葛靚はそのまま呉に仕え、265年に孫晧(そんこう)が建業(けんぎょう)から武昌(ぶしょう)へ遷都した際、御史大夫(ぎょしたいふ)の丁固(ていこ)とともに右将軍(ゆうしょうぐん)として旧都の建業を守る。

翌266年、永安(えいあん)の山賊の施但(したん)らが数千人を集め、孫晧の異母弟である永安侯の孫謙(そんけん)を強迫して連れ出したうえ烏程(うてい)まで進み、孫和(そんか)の陵墓を暴く。

さらに彼らが建業へ近づいてきたとき、その徒党は1万余人に増えていた。諸葛靚は丁固と迎え撃ち、牛屯(ぎゅうとん)で賊軍と激戦を繰り広げた末に勝利した。

268年、諸葛靚は孫晧の命を受け、丁奉(ていほう)とともに晋(しん)の合肥(ごうひ)を攻めた。

280年、晋が呉へ大攻勢を仕掛けると、諸葛靚は副軍師(ふくぐんし)として丞相(じょうしょう)・軍師の張悌(ちょうてい)の下で、護軍将軍(ごぐんしょうぐん)の孫震(そんしん)や丹楊太守(たんようたいしゅ)の沈瑩(しんえい)らとともに防戦にあたったものの、呉軍は大破された。

ほどなく孫晧が晋の司馬炎(しばえん)に降伏し呉が滅亡した後、諸葛靚は晋(郷里の琅邪郡)に帰った。その後の諸葛靚については(『三国志』には)記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・諸葛誕伝)および『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)、そしてその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『襄陽記(じょうようき)』や干宝(かんぽう)の『晋紀(しんき)』などによるものです。

「その後の諸葛靚については(『三国志』には)記事がない」と書きましたが、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)などを見ると、劉義慶(りゅうぎけい)の『世説新語(せせつしんご)』には、郷里に帰った後の諸葛靚が決して晋に仕えず、いつも洛水(らくすい。晋都の洛陽〈らくよう〉の近くを流れている)に背を向け座っていた、という逸話もあるようです。

ですが、その辺りを反映できていないので、この記事も中途半端なものになってしまいました。いずれ加筆できればいいなと思います。

また唐代(とうだい)に編纂(へんさん)された『晋書(しんじょ)』には、彼の息子の「諸葛恢伝」があります。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました