【姓名】 郭氏(かくし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 西平郡(せいへいぐん)
【生没】 ?~263年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第105回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・明元郭皇后伝(めいげんかくこうごうでん)』あり。
魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の正室、明元郭皇后
父は郭満(かくまん)、母は杜氏(とし)。郭立(かくりゅう)は叔父、郭芝(かくし)は従父(おじ)。
郭家は代々河右(かゆう。河西〈かせい〉)の豪族だった。黄初(こうしょ)年間(220~226年)に西平郡で反乱が起こったため、身分を剝奪された郭氏は後宮に入れられた。
曹叡の即位後に寵愛を受けて夫人(ふじん。皇妃の位のひとつ)となり、238年に曹叡が危篤に陥ると、ついに皇后に立てられた。
翌239年に曹芳(そうほう)が即位すると皇太后と尊ばれ、永寧宮(えいねいきゅう)と呼ばれた。
この後、曹髦(そうぼう)を経て曹奐(そうかん)の時代まで存命し、263年に崩御(ほうぎょ)。翌264年に高平陵(こうへいりょう。曹叡の陵)の西に葬られた。
管理人「かぶらがわ」より
郭氏が皇太后となってから、魏では249年に正始(せいし)の政変(司馬懿〈しばい〉によるクーデター)があり、255年には毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の反乱。
そして257年には諸葛誕(しょかつたん)の反乱と、これに絡む曹髦の親征。さらに263年には、蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の降伏といった出来事がありました。
司馬懿やその息子の司馬師(しばし)・司馬昭(しばしょう)は、重要な局面で郭氏の命令(と称するもの)を効果的に使い、実権を固めていきました。
また255年の反乱時には、毌丘倹と文欽が郭氏の命令を奉じて司馬師を討伐すると称しており、郭氏の死後の264年に蜀で反乱を起こした鍾会(しょうかい)も、郭氏の遺令を奉じて司馬昭を討伐すると称しています。
生前も死後も、魏の重臣たちに都合よく使われた感じがしますね……。
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