蘇林(そりん) ※あざなは孝友(こうゆう)

【姓名】 蘇林(そりん) 【あざな】 孝友(こうゆう)

【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・劉劭伝(りゅうしょうでん)』に付された「蘇林伝」あり。

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古今の字義に精通していた学者

父母ともに不詳。

蘇林は広く学問を修め、古今の字義にも精通していた。種々の書物や伝承されてきた文章に疑問が持ち上がると、彼はそのすべてを解いてみせた。

建安(けんあん)年間(196~220年)、蘇林は五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう。211~217年)の曹丕(そうひ)の文学(ぶんがく。官名)として礼遇される。

さらに曹丕の黄初(こうしょ)年間(220~226年)には博士(はくし)・給事中(きゅうじちゅう)を務めた。

『三国志』(魏書・文帝紀〈ぶんていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『献帝伝(けんていでん)』では、給事中・博士・騎都尉(きとい)とある。

蘇林については、曹丕が自著の『典論(てんろん)』の中でも称揚したほど。

後に蘇林は老齢のため私邸へ帰ったが、天子(てんし。曹丕や曹叡〈そうえい〉?)はいつも人を遣って慰問させ、たびたび品物を下賜した。

その後、蘇林は80余歳で死去(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

上で挙げた記事は、本伝の裴松之注に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

また『三国志』(魏書・高堂隆伝〈こうどうりゅうでん〉)には、景初(けいしょ)年間(237~239年)、曹叡は蘇林や秦静(しんせい)らが高齢だったため、彼らの学問を伝える者がいなくなることを心配した、という記事がありました。

そこで詔(みことのり)を下し、郎吏のうちで優れた才能を持ち、経義を理解できる者30人を選び、光禄勲(こうろくくん)の高堂隆、散騎常侍(さんきじょうじ)の蘇林、博士の秦静に就いて、四経と三礼(さんらい)を分担して学ぶよう命じます。

四経は『左氏伝(さしでん)』『穀梁伝(こくりょうでん)』『古文尚書(こぶんしょうしょ)』『毛詩(もうし)』のこと。

三礼は『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』のこと。

一方、担当官吏には彼ら学生のために試験方法を整備するよう命じ、学生に対しては、経典(けいてん)を究めた者があれば、爵位や俸禄、栄誉や恩寵は期待せずとも訪れる、と励ましたそうです。

しかし、数年後に高堂隆らはみな死去してしまい、ついに学問は廃れてしまったのだと。

高堂隆・蘇林・秦静のいずれも没年がはっきりしませんが、この記事からすると240年前後でしょうか?

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