仲長統(ちゅうちょうとう)

【姓名】 仲長統(ちゅうちょうとう) 【あざな】 公理(こうり)

【原籍】 山陽郡(さんようぐん)

【生没】 ?~220年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・劉劭伝(りゅうしょうでん)』に付された「仲長統伝」あり。

変わり者に見えたという学者

父母ともに不詳。

仲長統は若いころから学問を好み、様々な書物を読みあさり文章表現が豊かだった。20余歳の時に青州(せいしゅう)・徐州(じょしゅう)・幷州(へいしゅう)・冀州(きしゅう)一帯に遊学したが、彼と付き合った者の多くが評価したという。

幷州刺史(へいしゅうしし)の高幹(こうかん。袁紹〈えんしょう〉の甥)は高い身分と名声を持ち、故郷を離れている四方の人士を招聘(しょうへい)しており、彼のもとに身を寄せる者が多くいた。

あるとき仲長統が高幹を訪ね、こう警告する。

「殿は大いなるご意志をお持ちですが、それに見合う才能をお持ちではありません。また、人を招くのを好んでおられますが、その人物を見分けることがおできになりません。殿のため、謹んでご注意を申し上げる次第です」

だが高幹は自信過剰だったので、この言葉を受け入れようとしなかった。仲長統が去ってからほどなくして高幹が失敗したため、幷州や冀州の人士は彼の見識を認めることになった。

204年、高幹は曹操(そうそう)に降り「幷州刺史」を務めていたが、翌205年に背いた。しかし、曹操自ら討伐に乗り出したこともあり、翌206年に敗死した。

大司農(だいしのう)の常林(じょうりん)が仲長統と上党(じょうとう)にいたとき、常林が繆襲(びゅうしゅう)に言った。

「仲長統は他人の束縛を受け付けず、勇敢に直言し小さな節義にこだわらない。諸郡が招聘して任官しようとしても、彼はいつも病気を理由に就任しない」

仲長統は、沈黙しているのかと思うと突然しゃべりだしたり、態度もころころ変わるので、彼のことを「狂生(狂人)」と呼ぶ者もいた。

献帝(けんてい)が許(きょ)にあった(196~220年)ころ、仲長統は尚書令(しょうしょれい)の荀イク(じゅんいく)の推挙を受けて「尚書郎(しょうしょろう)」に任ぜられる。のち曹操の「参軍事(さんぐんじ)」を経て再び「尚書郎」に戻った。

仲長統は古今にわたる世俗の事件を論説し、それに関する論文を著し「昌言(しょうげん)」と名付けたが、これは全部で24編あった。

そして220年に死去したが、このとき40余歳だったという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には記事が少なく、上で挙げたものは本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く、友人の繆襲が著した「仲長統の『昌言』を奉る表」によるところが大きいです。仲長統は変わり者に見えたそうですが、天才にはそういう人も多いですよね。

なお、常林が「大司農」を務めたのは曹丕の時代(220~226年)のことなので、常林が仲長統とともに上党にいた時期というのはイマイチよくわかりませんでした。「のち『大司農』になった常林」という意味合いなのかもしれません。

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