顧徽(こき) ※あざなは子歎(したん)

【姓名】 顧徽(こき) 【あざな】 子歎(したん)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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曹操(そうそう)と見事に渡り合った能弁の士

父母ともに不詳。顧雍(こよう)は同母兄。顧裕(こゆう)という息子がいた。

兄の顧雍にも、顧裕という同名の息子(あざなは不詳)がいるので注意を要する。顧徽の息子の顧裕は、あざなを季則(きそく)といった。

顧徽は若いころに遊学し、弁才があったという。

200年、孫策(そんさく)の急死を受けて孫権(そんけん)が跡を継ぐと、顧徽は有能さを見込まれて召し出され、主簿(しゅぼ)に任ぜられた。

その後、顧徽が出かけた折、営軍(えいぐん)の部将がひとりの男を市場へ引っ立て、今にも処刑しようとしているのを見かける。部将に男の罪状を尋ねると、100銭を盗んだのだという。

これを聞くと、顧徽はしばらく処刑を待てと言い、孫権のもとに駆けつけて述べた。

「いま我らは兵士をよく養い、北方の賊どもの討伐を目指しているところです。この兵士は体格も立派ですし、盗んだ銭もわずかなもの。どうか彼に哀れみを垂れたまわんことを」

孫権は兵士を許したうえ、顧徽の進言を嘉(よみ)した。やがて顧徽は東曹掾(とうそうえん)に転ずる。

曹操が東方の攻略をもくろんでいるとの話が伝わると、顧徽は特に孫権の命を受け、輔義都尉(ほぎとい)として曹操のもとへ遣わされた。

顧徽は曹操の問いかけに無難に応ずる一方で、江東(こうとう)が大豊作だったことや、長年にわたり山沢から出てこなかった賊徒らが、みな孫権の教化を受け、進んで兵士として加わっていることなどを語る。

すると曹操は笑って言った。

「私と孫将軍(孫権)とは姻戚関係を結んでおり、ともに漢室(かんしつ)をお支えすべき立場であるから、我らは一家も同然だ。それなのに、なぜきみはそのような話を聞かせようとするのか?」

また顧徽が応えて言った。

「あなたさまは、わが主君と盤石のごとき強固な関係を築かれ、喜びや憂いをも共有しておられます。ですから、きっと江南(こうなん)の現状をお知りになりたいだろうと思い、お話しした次第です」

顧徽は曹操に手厚くもてなされ、無事に帰国を果たした。そして孫権にこう報告する。

「敵国の内情を探るのは至難ですが、私が密かに知り得た情報によれば、ただいま曹操は袁譚(えんたん)と交戦中で、ほかのことを考える余裕はないようでございます」

帰国後、顧徽は巴東太守(はとうたいしゅ)に任ぜられた。しかし、さらに孫権が彼を重用しようと考えていたとき、図らずも死去(時期は不明)してしまったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・顧雍伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によるもの。

曹操とのやり取りだけを見ても、顧徽の能弁さや思慮深さがうかがえます。

ただ、曹操が袁譚を南皮(なんぴ)で撃破し、その妻子ともども処刑したのは205年1月のことなので、顧徽は同母兄の顧雍(168~243年)に比べると、孫権の下で活躍した期間はだいぶ短かったようです。

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