【姓名】 崔琰(さいえん) 【あざな】 季珪(きけい)
【原籍】 清河郡(せいかぐん)東武城県(とうぶじょうけん)
【生没】 ?~216年(?歳)
【吉川】 第120話で初登場。
【演義】 第033回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・崔琰伝』あり。
一通の手紙が招いた死
父母ともに不詳。兄がいたものの名は出てこない。崔林(さいりん)は従弟。
崔琰は少年のころ朴訥(ぼくとつ)な人柄で、剣術を好み武芸を尊んだという。
23歳の時、郷(県の管轄下に置かれた行政区画の単位)から公文書をもって正卒(せいそつ。正規兵)に任ぜられる。彼は武人として扱われたことに発奮し、『論語(ろんご)』と『韓詩(かんし)』を読んだ。
29歳になり、公孫方(こうそんほう)らとともに鄭玄(ていげん。じょうげん)の下で学ぶ。
それから1年も経たないうち、徐州(じょしゅう)の黄巾賊(こうきんぞく)が北海郡(ほっかいぐん)を攻め破った。
鄭玄は門人を連れて不其山(ふきさん)へ避難したものの、米の蓄えが乏しくなり講義を続けられなくなる。崔琰も鄭玄の下を離れることになったが、盗賊がのさばっていて西方へ帰ることはできない。
そこで青州(せいしゅう)・徐州・兗州(えんしゅう)・豫州(よしゅう)の田園地帯を巡り歩いた末、寿春(じゅしゅん)まで下った。
こうして4年がかりで帰郷を果たすと、琴と書物を楽しんで暮らす。やがて大将軍(だいしょうぐん)の袁紹(えんしょう)に召され、騎都尉(きとい)に任ぜられた。
199年、袁紹は黎陽(れいよう)で軍勢を整え、延津(えんしん)まで進出する。
崔琰は天子(てんし。献帝〈けんてい〉)が許(きょ)にあることに触れ、曹操(そうそう)とは戦わず、まず領内を安定させるよう諫めた。
しかし袁紹は聞き入れず、翌200年、官渡(かんと)で曹操に大敗してしまう。
202年に袁紹が亡くなると、息子の袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)がいがみ合い、ともに崔琰を味方に引き入れようとする。
だが、崔琰は病気と称して固辞した。このことから投獄されたものの、陰夔(いんき)と陳琳(ちんりん)のおかげで難を免れた。
204年、曹操が袁氏を破って冀州牧(きしゅうぼく)となると、崔琰は別駕従事(べつがじゅうじ)に任ぜられる。
このとき戸籍を調べた曹操が、冀州では30万の兵を得られると話したところ、崔琰は、民の苦しみを救う前に兵の数を調べた態度を批判し、曹操も陳謝する。同席した賓客はみな蒼白(そうはく)になったという。
翌205年、曹操が幷州(へいしゅう)の高幹(こうかん)討伐に赴くと、崔琰は鄴(ぎょう)に留まり曹丕(そうひ)を補佐した。
崔琰は書簡をもって狩猟に夢中の曹丕を諫め、曹丕も彼の諫言を聞き入れて謝意を示す。
208年、曹操が丞相(じょうしょう)になると、崔琰は東曹(とうそう)や西曹(せいそう)の属官を経て徴事(ちょうじ。丞相徴事)になった。
213年に魏が建国された当初、崔琰は尚書(しょうしょ)を務めたが、まだ太子は立てられておらず、曹丕の弟である臨菑侯(りんしこう。214~221年)の曹植(そうしょく)がかわいがられていた。
なかなか曹操は決断がつかず、外部の者に封をした文書を送って内密に諮問する。そのうち崔琰だけが、封をしない返書によってこう述べた。
「『春秋(しゅんじゅう)』の建前では、跡継ぎを立てる場合は年長者を選ぶと聞いております」
「そのうえ五官将(ごかんしょう。五官中郎将〈ごかんちゅうろうしょう。211~217年〉の曹丕)は愛情が深く孝行で、聡明(そうめい)でもあられます」
「正しい血統を引き継がれるのが当然で、琰(崔琰自身)は死をもってこのことを守り通します」
実のところ、曹植は崔琰の兄の娘婿だった。曹操は崔琰の公明さに敬服して感嘆のため息を漏らし、中尉(ちゅうい)に昇進させた。
崔琰は声や容姿に気品があり、4尺(せき)のひげを蓄え、非常に威厳もあった。朝廷の官僚から仰ぎ慕われ、曹操すら遠慮して敬意を示したほどである。
かつて崔琰が推薦し、曹操に招聘(しょうへい)された楊訓(ようくん)という者がいた。216年に曹操が魏王(ぎおう)となったとき、その楊訓が上奏文で功績を賛美し、盛徳を称揚した。
この上奏文を読んだ人々の中には、楊訓の軽薄さを嘲笑し、崔琰は推薦する人物を誤ったと考える者がいた。
そこで崔琰は楊訓の上奏文の草稿を取り寄せたうえ、自分の思いを書いた手紙を送る。
ところが彼の手紙の内容が、世間を馬鹿にした怨恨(えんこん)や誹謗(ひぼう)の代物だと問題になってしまう。
曹操も、手紙の字句に不遜なものがあると感じて腹を立て、崔琰を懲役囚とした。
それでも崔琰は、処罰された身でありながら家に賓客を通し、言葉や態度にくじけた様子を見せない。そこで曹操は命を下し、崔琰に死を与えた。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、崔琰は昔から司馬朗(しばろう)と親しく、まだ成年に達したばかりだった弟の司馬懿(しばい)を見て、その大物ぶりを見抜いたということです。
ほかにも従弟の崔林を始め、孫礼(そんれい)や盧毓(ろいく)らの才能を評価し、彼らはみな三公まで昇ったのだと。
また、友人の公孫方と宋階(そうかい)は早くに亡くなったものの、その遺児をかわいがり、わが子と同様に恩愛を与えていたともいう。
優れた鑑定眼と義理堅さを備え、その死が惜しまれる人物でした。
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