陳琳(ちんりん) ※あざなは孔璋(こうしょう)、建安七子(けんあんのしちし)のひとり

【姓名】 陳琳(ちんりん) 【あざな】 孔璋(こうしょう)

【原籍】 広陵郡(こうりょうぐん)

【生没】 ?~217年(?歳)

【吉川】 第243話で初登場。
【演義】 第002回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王粲伝(おうさんでん)』に付された「陳琳伝」あり。

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名文は良薬に勝る、建安七子(けんあんのしちし)のひとり

父母ともに不詳。

初め陳琳は大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)の下で主簿(しゅぼ)を務めた。

189年、何進は宦官(かんがん)の誅滅を計ったものの、妹の何太后(かたいこう)が許さない。そこで四方の猛将と配下の軍勢を都(洛陽〈らくよう〉)へ召し寄せ、何太后に圧力をかけようとする。

陳琳は言葉を尽くして諫めたものの容れられず、何進は動乱のきっかけを作ることになってしまった。

同年8月、何進が中常侍(ちゅうじょうじ)の張譲(ちょうじょう)と段珪(だんけい)らに謀殺されると、陳琳は冀州(きしゅう)に難を避け、袁紹(えんしょう)に仕えて文章をつかさどった。

200年、袁紹が官渡(かんと)で曹操(そうそう)に大敗。

202年、袁紹が死去すると、陳琳はその息子の袁尚(えんしょう)に仕える。

204年、曹操軍に鄴(ぎょう)が包囲されたため、袁尚が救援に駆けつけて滏水(ふすい)を前に布陣する。袁尚は夜襲を仕掛けたが撃退され、かえって自陣まで包囲された。

この際、陳琳は陰夔(いんき)とともに袁尚の使者となり、曹操に降伏を乞うたが許されず。袁尚は夜に紛れて逃走し、陳琳は曹操に帰服した。

曹操は以前(官渡の戦いのころ)に陳琳が袁紹のために書いた檄文(げきぶん)の中で、自分の父祖まで引き合いに出されたことを責める。

しかし陳琳が謝罪すると、曹操も彼の才能を愛していたので、それ以上はとがめなかった。

後に陳琳は阮瑀(げんう)とともに司空軍謀祭酒(しくうぐんぼうさいしゅ)となり、記室(きしつ)を担当。軍事や政治に関する文書や檄文には、彼らふたりの作ったものが多かったという。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

やがて陳琳は門下督(もんかとく)に、阮瑀は倉曹掾属(そうそうえんぞく)に、それぞれ転じた。

五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう。211~217年)の曹丕(そうひ)や平原侯(へいげんこう。211~214年)の曹植(そうしょく)が文学を愛好していたため、陳琳も王粲・徐幹(じょかん)・阮瑀・応瑒(おうちょう)・劉楨(りゅうてい)らとともに友人として親愛された。

217年、陳琳は疫病の大流行に遭って死去。この年には王粲・徐幹・応瑒・劉楨も相次いで亡くなった(阮瑀は212年没)。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によると、陳琳は種々の文書や檄文を作りましたが、その草稿ができ上がると曹操に見せていたそうです。

曹操は以前から頭風(とうふう。頭痛の一種)に苦しんでおり、この日も横になりながら草稿を読んでいましたが、すっくと身を起こし、「こいつが私の病気を治したぞ!」と言ったのだとか。

陳琳はたびたび手厚い賜与を受けていたともあるので、彼の書いた文章は、曹操にとって薬にも勝るものだったのでしょう。

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