阮瑀(げんう) ※あざなは元瑜(げんゆ)、建安七子(けんあんのしちし)のひとり

【姓名】 阮瑀(げんう) 【あざな】 元瑜(げんゆ)

【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)尉氏県(いしけん)

【生没】 ?~212年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王粲伝(おうさんでん)』に付された「阮瑀伝」あり。

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手直しいらずの見事な草稿、建安七子(けんあんのしちし)のひとり

父母ともに不詳。阮熙(げんき)と阮籍(げんせき)というふたりの息子がいた。

阮熙の名は『三国志』には出てこない。

阮瑀は若いころ蔡邕(さいよう。192年没)の下で学ぶ。

建安(けんあん)年間(196~220年)、都護(とご)の曹洪(そうこう)から書記(しょき)として招かれたものの応じなかった。

後に阮瑀は曹操(そうそう)に仕え、陳琳(ちんりん)とともに司空軍謀祭酒(しくうぐんぼうさいしゅ)となり、記室(きしつ)を担当。

軍事や政治に関する文書や檄文(げきぶん)には、彼らふたりの作ったものが多かったという。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

やがて阮瑀は倉曹掾属(そうそうえんぞく)に、陳琳は門下督(もんかとく)に、それぞれ転ずる。

五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう。211~217年)の曹丕(そうひ)や平原侯(へいげんこう。211~214年)の曹植(そうしょく)が文学を愛好していたため、阮瑀も王粲・徐幹(じょかん)・陳琳・応瑒(おうちょう)・劉楨(りゅうてい)らとともに友人として親愛された。

後に阮瑀は212年に死去した。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によると、阮瑀は曹操の命を受け、韓遂(かんすい)宛ての文書を作ったことがあったという。

このとき曹操は近くへ出かけており、阮瑀も随行していましたが、そのまま馬上で草稿を練ると、一気に書き上げて差し出します。

曹操は筆を執り、手直しするところがないか探しますが、一字も変えることができなかったのだとか。

建安七子に数えられるのは、孔融(こうゆう)・陳琳・王粲・徐幹・応瑒・劉楨に阮瑀を含めた7人。

このうち孔融は208年に処刑されており、212年に阮瑀が亡くなった後、217年には疫病の大流行があり、陳琳・王粲・徐幹・応瑒・劉楨も相次いで亡くなってしまいました。

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