卞氏(べんし)B ※曹操(そうそう)の妻、魏(ぎ)の武宣卞皇后(ぶせんべんこうごう)

【姓名】 卞氏(べんし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)開陽県(かいようけん)

【生没】 160~230年(71歳)

【吉川】 第244話で初登場。
【演義】 第068回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・武宣卞皇后伝(ぶせんべんこうごうでん)』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

魏(ぎ)の曹操(そうそう)の正室、武宣卞皇后

父は卞遠(べんえん)だが、母は不詳。曹操との間に、曹丕(そうひ)・曹彰(そうしょう)・曹植(そうしょく)・曹熊(そうゆう)を儲けた。

もとは歌妓(かぎ)で、20歳の時(179年)、譙(しょう)にいた曹操の側室となった。

建安(けんあん)の初年(196年)、正室の丁夫人(ていふじん)が廃されたため代わって正室に立てられた。その際に曹操は、生母のいない息子たちをみな卞氏に養育させたという。

219年、魏王の曹操の王后に立てられる。

翌220年、曹操が崩御(ほうぎょ)して曹丕が魏王を継ぐと、王太后の尊号を贈られ、年内に曹丕が帝位に即くと、改めて皇太后の尊号を贈られた。

226年、曹丕が崩御して曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、太皇太后の尊号を贈られた。

230年、卞氏が崩御し、高陵(こうりょう。曹操の陵墓)に合葬された。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』には、卞氏の人柄を表す逸話がありました。

「曹操の正室だった丁氏は曹昂(そうこう)を養育していたこともあり、卞氏母子をまともに扱わなかった。やがて曹昂の戦死を巡って曹操が丁氏と不和になり、丁氏は離縁される」

「しかし、その後で正室に立てられた卞氏は、以前の丁氏の態度を恨みに思わず、曹操の不在時を見計らい、贈り物を届けさせたり、丁氏を招待したりした」というもの。

また、同じく本伝の裴松之注に引く王沈(おうしん)の『魏書』にも、「曹操は立派な耳飾りを何組か手に入れると、いつも卞氏にひと組を選び取らせたが、卞氏は中級の品を選んだ」という話がありました。

曹操が理由を尋ねると、「上級の品を選ぶと欲が深いと取られますし、下級の品を選ぶと見せかけの行為と取られますから、中級の品を選んだのです」との答え。

「卞氏は倹約家で華美を好まず、刺繡(ししゅう)のある衣服や珠玉を持たなかった。器物はすべて黒い漆塗りのものを用いた」ともいう。

帝位に登った曹丕をはじめ、武勇に長けた曹彰に文才が輝く曹植。曹熊だけは不遇な感じでしたが、この4人の生母であることからも、魏の中心にいた女性と言えます。

追記

卞氏が丁氏に代わって曹操の正室に立てられた時期は、建安の初年(196年)と考えていましたが、丁氏の離縁に関わる曹昂の戦死が197年のことですから、上の話と合いません。

『国語辞典』で調べてみると、初年には「その年号の初めのころ」という意味もありました。ということで、文字通りの初年(196年)とは断定できず、196年ごろという意味合いとも考えられます。

この件については丁氏Bの個別記事もご覧ください。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました