孔融(こうゆう) ※あざなは文挙(ぶんきょ)、建安七子(けんあんのしちし)のひとり

【姓名】 孔融(こうゆう) 【あざな】 文挙(ぶんきょ)

【原籍】 魯国(ろこく)魯県(ろけん)

【生没】 153~208年(56歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。

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孔子(こうし)の20代目の子孫にして建安七子(けんあんのしちし)のひとりだが、実務能力に欠ける

父は孔宙(こうちゅう)だが、母は不詳。孔襃(こうほう)は兄。息子と娘がひとりずついた。

孔融は豫州刺史(よしゅうしし)の王允(おういん)に召し出され、従事(じゅうじ)に任ぜられた。

やがて大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)の推挙により、北軍中候(ほくぐんちゅうこう)や虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)を務めた。

189年8月、何進が宦官(かんがん)に殺害され、董卓(とうたく)が実権を握ると、翌190年(189年中かも)、孔融は北海国相(ほっかいこくしょう)として地方へ転出することになった。

196年、朝廷に召し還されて(実際のところは根拠地を失い、身ひとつでの逃亡)将作大匠(しょうさくたいしょう)に任ぜられ、のち少府(しょうふ)に昇進。

ところが孔融は、たびたび曹操(そうそう)を馬鹿にしたような態度を取り、彼が出した禁酒令をからかったりもした。御史大夫(ぎょしたいふ)の郗慮(ちりょ)は曹操の気持ちを察し、法によって孔融を罷免する。

それから1年余りして、孔融は太中大夫(たいちゅうたいふ)に任ぜられた。

208年8月、孔融は孫権(そんけん)の使者に対して、曹操を誹謗(ひぼう)する発言をしたと問罪され、市場で処刑された。その一族も皆殺しになった。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』には孔融の伝が立てられていませんけど、范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』には立てられています。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王粲伝〈おうさんでん〉)に付された徐幹(じょかん)らの伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く曹丕(そうひ)の『典論(てんろん)』では、「孔融は文体や気品が優れていて、他人の及ばないものがあるが、議論を展開するのはうまくない。その論理は文辞に及ばず、戯れやからかいを交えるに至っている」としながらも、「しかしその優れた点を見ると、揚雄(ようゆう)や班固(はんこ)の仲間である」と評価されていました。

また『三国志』(魏書・崔琰伝〈さいえんでん〉)の裴松之注に引く司馬彪(しばひゅう)の『続漢書(しょくかんじょ)』には、孔融の少年時代の話がいくつか載せられています。

「孔融が10余歳だったころ、当時の名士で河南尹(かなんいん)の李膺(りよう)は、使用人に命じ、訪問客を選んで通していた。李膺は、当代の優れた人物か、先祖の代から付き合いのある家(通家〈つうか〉)の子孫でなければ会わないと言っていた」

「孔融は李膺に会って、その人柄を観察したいと思った。そこで屋敷を訪ね、門番に『私は李君(李膺)の通家の子孫です』と言って通してもらう」

「そして李膺から、『お客人のご先祖は、私の家とどのような付き合いがあったのですかな?』と問われると、孔融はこう答えた。『私の先祖の孔子は、あなたさまのご先祖の李老君(りろうくん。老子〈ろうし〉。李耳〈りじ〉)と肩を並べる徳義を持っており、弟子であり友人でもありました。とすれば、私とあなたさまとは何代にもわたる通家なのでございます』。座中の人々は孔融の返答を見事だと思い、みな『大した子どもだ』と言った」

さらに「後から太中大夫の陳煒(ちんい)がやってくると、同席していた者が孔融のことを語って聞かせた。すると陳煒は言った。『人というものは、幼いころに賢くても、成長してからも優れているとは限らないだろう』」

「これに孔融が応えた。『もしおっしゃる通りなら、あなたさまは幼いころ賢かったのでしょうね』。李膺は大笑いし、孔融を振り返って言った。『お客人。あなたが成長された後は、きっと立派な人物になられることだろう』」という話も。

ただ、これはいい話なの? と疑問を感じました。神童らしい逸話は、もう少しさわやかなものであってほしい。

同じく『続漢書』には、こういう話もあります。

「孔融が16歳の時、兄の孔襃と旧知の間柄だった山陽(さんよう)の張倹(ちょうけん)が、中常侍(ちゅうじょうじ)の侯覧(こうらん)の怒りを買い、逮捕されそうになった」

「張倹は孔襃を頼って逃亡してきたが、ちょうど彼は家にいなかった。張倹は弟の孔融が年少であることから、追われている事情を話さなかった」

「それでも孔融は張倹の様子を見て、『私ひとりでもあなたさまのお役に立てます』と言い、そのまま家にかくまった。後にこのことが外に漏れ、山陽国の大臣らが密かに逮捕に向かったものの、張倹は無事に脱出できた」

「一方で孔融は孔襃とともに捕らえられ、牢獄に送られる。だが兄弟はかばい合い、自分が処罰されるべきだと言い張った。郡や県では判断できず、お上に裁断を仰いだ結果、兄の孔襃が処刑されることになった。この事件によって孔融の名は遠近に鳴り響いた」

こちらは兄弟愛が感じられる、いい話なのかもしれません。でも孔融の話となると、計算のようなものがなかったのかと勘ぐりたくはなりますね。

孔融は学識があり、持っていた構想も立派なものでしたが、現状を踏まえて実行する手段にまで、考えが及んでいなかったらしい。

人材を登用する際も、一風変わった者を好んだそうですし、確かに禰衡(でいこう)を激賞したりもしていましたよね……。

デキる男という思い(思い込み?)が強かった孔融。朝廷の隅で文学だけを語っている、というのは難しそうな人です。

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