【姓名】 夏侯霸(かこうは) 【あざな】 仲権(ちゅうけん)
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第144話で初登場。
【演義】 第102回で初登場。
【正史】 登場人物。
父の敵(かたき)たる蜀(しょく)へ亡命
父は夏侯淵(かこうえん)だが、母は不詳。夏侯玄(かこうげん)は従子(おい)。夏侯衡(かこうこう)は兄で、夏侯称(かこうしょう)・夏侯威(かこうい)・夏侯栄(かこうえい)・夏侯恵(かこうけい)・夏侯和(かこうか)は弟。
夏侯霸は曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)に偏将軍(へんしょうぐん)となり、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。
230年、夏侯霸は曹真(そうしん)の蜀討伐に従軍し、先鋒として興勢(こうせい)を包囲する。このときは蜀軍の攻撃を受けて、奮戦の末に撤退した。
後に夏侯霸は右将軍(ゆうしょうぐん)として隴西(ろうせい)に駐屯したが、配下の兵士を大切にし、異民族を手なずけたため、彼らからの評判は良かったという。
曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)、夏侯霸は夏侯儒(かこうじゅ)に代わって征蜀護軍(せいしょくごぐん)となり、征西将軍(せいせいしょうぐん)の夏侯玄に属する。爵位も博昌亭侯(はくしょうていこう)に進んだ。
249年、親しくしていた曹爽(そうそう)が、司馬懿(しばい)によって刑死に追いやられ、夏侯玄が朝廷に召し還されると、夏侯霸は自分にも災いが及ぶと考えて恐れを抱く。
それに加えて、以前から仲の悪かった雍州刺史(ようしゅうしし)の郭淮(かくわい)が、夏侯玄に代わって征西将軍に任ぜられたため、夏侯霸はいっそう不安が高まり、ついに蜀への亡命を決意する。
劉禅(りゅうぜん)の皇后の張氏(ちょうし)は張飛(ちょうひ)の娘で、母は夏侯霸の従妹だった。このため夏侯霸は蜀へ入ってからも厚遇された。
★張飛のふたりの娘は、いずれも劉禅の皇后となった。
255年、夏侯霸は車騎将軍(しゃきしょうぐん)として、姜維(きょうい)とともに魏の狄道(てきどう)に進出し、雍州刺史の王経(おうけい)に大勝。
その後の夏侯霸については記事がないが、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・趙雲伝〈ちょううんでん〉)に、彼が遠方より帰順したことを評価され、劉禅から諡号(しごう)が贈られたとある。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯尚伝〈かこうしょうでん〉)に付された「夏侯玄伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』および『三国志』(蜀書・姜維伝)などによるものです。
父の夏侯淵が蜀との戦いで討ち死にしたことと、従妹の娘が劉禅の皇后になったことを考え合わせると、かなり複雑な背景を抱えながらの夏侯霸の亡命。
確かに魏に残ったままだったら、司馬懿が彼を放っておかなかったのでしょうけど、蜀の将軍として魏軍と戦うところまでいくのも、ちょっとね……。
なお、夏侯霸の従妹が張飛の妻となった経緯については、先に採り上げた張飛の個別記事をご覧ください。
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横山三国志のマンガで長坂の戦いの所の橋の所で夏侯覇と名乗って張飛に殺されてはいないけど河に落とされるシーンがあるのですが この夏侯覇と司馬懿が曹叡にはじめて夏侯覇・夏侯威・夏侯恵・夏侯和推挙したときの夏侯覇は同じ人物ですか?
団長さん、コメントありがとうございます。
横山『三国志』の基になっている吉川『三国志』の(六)赤壁の巻「長坂橋(ちょうはんきょう)」の中に、ご指摘のシーンが出てきます。
ここで登場する夏侯覇と、同じく吉川『三国志』の(十)五丈原の巻「具眼の士(ぐがんのし)」で、司馬懿が曹叡に推挙した夏侯覇は同じ人物だと思います。
ただし、同じ長坂橋のくだりを描いた『三国志演義』(第42回)では、張飛に圧倒されて落馬するのは夏侯傑(かこうけつ)という架空の人物になっています。
なので、横山『三国志』や吉川『三国志』の長坂橋のくだりで夏侯覇を使ったのは、彼の年齢などを考えると適切とは言えないかもしれません。
吉川『三国志』の考察 第144話「長坂橋」
https://sangokushi-biyori.com/novel-yoshikawa-6-sekiheki-144
吉川『三国志』の考察 第301話「具眼の士」
https://sangokushi-biyori.com/novel-yoshikawa-10-gojogen-301
いま手元に横山『三国志』がないので、該当のシーンを確認しないまま返信しています。十分な返信になっていなかったらごめんなさい。