吉川『三国志』の考察 第144話「長坂橋(ちょうはんきょう)」

趙雲(ちょううん)は阿斗(あと。劉禅〈りゅうぜん〉)を懐に抱きながら、ついに曹操軍(そうそうぐん)の分厚い包囲を突破する。劉備(りゅうび)はわが子の無事よりも趙雲の無事を喜んだ。

押し寄せる曹操軍に対し、張飛(ちょうひ)は単騎で長坂橋(ちょうはんきょう)に立ちふさがり、ことごとく敵を食い止める。

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第144話の展開とポイント

(01)当陽(とうよう)

この日、曹操は景山(けいざん)の上から戦の情勢を眺めていた。するとひとりの敵将が、まるで無人の境を行くように陣地を駆け破るのを見る。

曹洪(そうこう)に確かめさせたところ、劉備配下の趙雲だとわかった。曹操は各陣に矢や石弩(せきど)を使うなと言い、生け捕りにするよう命ずる。

行く先々の敵の囲みは分厚いものだったが、趙雲は鎧(よろい)の胸当ての下に阿斗(劉禅)を抱えながら悪戦苦闘し、次々と駆け破っていく。

敵陣の大旗を斬り倒すこと二本、敵の大矛を奪うこと三条(みすじ)、名のある大将を斬り捨てること数知れず――。

身に一矢一石を受けもせず、ついにさしもの広野をよぎり抜け、まずはホッと山あいの小道までたどり着いた。

『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)では、このとき趙雲が槍(やり)で突き、剣で刺し殺した曹操軍の名将は、都合50人余りに上ったとある。

だがここにも、鍾縉(しょうしん)と鍾紳(しょうしん)と名乗る兄弟がふた手に分かれ陣を布(し)いていた。兄の鍾縉は大斧(おおおの)をよく遣い、弟の鍾紳は方天戟(ほうてんげき)の妙手として名がある。ふたりは示し合わせておめきかかった。

さらに張遼(ちょうりょう)の大兵や許褚(きょちょ)の猛兵も、彼を生け捕りにせんものと野を掃き追ってくる。

趙雲は前後して鍾縉と鍾紳を斬り捨てたものの、気息は奄々(えんえん)と荒く、満顔全身は血と汗にまみれ、馬もよろよろに成り果てて、辛くも死地を脱することができた。

(02)長坂橋

ようやく趙雲が長坂坡(ちょうはんは)まで来ると、彼方(かなた)の橋上に、一騎で大矛を横たえている張飛の姿が小さく見える。

なお敵の文聘(ぶんぺい)が後方から襲ってくると、さすがの趙雲も絶叫して助けを求めた。これに気づいた張飛が駆けつけ、後を引き受ける。

趙雲は長坂橋を渡り、劉備が休んでいる森陰までたどり着く。そして糜夫人(びふじん。麋夫人)の最期を語り、救い出した阿斗を差し出す。

思わず阿斗に頰ずりする劉備。ところが、急に阿斗の体を草むらへ放り投げる。いぶかる諸将に劉備が言った。

「思うに趙雲のごとき股肱(ここう)の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい」

「それにここは戦場である。凡児の泣き声は、なおさら凡父の気を弱めていかん。ゆえに放り捨てたまでのことだ。諸将よ、わしの心を怪しんでくれるな」

趙雲は地に額をすりつける。越えてきた百難の苦も忘れ、この君のためなら死んでもいいと胸に誓い直した。

曹操が景山を下りると、たちまち旗や馬印の激流が野に広がる。曹仁(そうじん)・李典(りてん)・夏侯惇(かこうじゅん)・楽進(がくしん)・張遼・許褚などもみな方向を一にして長坂坡へ迫った。

井波『三国志演義(3)』(第42回)では、ここに夏侯淵(かこうえん)や張郃(ちょうこう)の名も見える。

すると彼方から文聘とその手勢が、散々な態になり逃げ乱れてくる。長坂橋のほとりで、ただ一騎加勢に駆けつけた張飛に防がれ、趙雲を取り逃がしたという。

これを聞いた諸将は争って長坂橋に殺到。橋の上にいたのは張飛ただ一騎のみ。諸将は逸(はや)り立つが、曹操は、対岸の林に兵が隠してあると言って制する。

張飛が名乗りかけて勝負を求めると、曹操は、むかし関羽(かんう)に言われた言葉を思い出す。

曹操が関羽に言われた言葉については、先の第102話(04)を参照。

曹操の様子を見ていた夏侯覇(かこうは。夏侯霸)は橋板を踏み鳴らし、張飛のそばへ寄ろうとする。張飛が蛇矛(じゃぼう)を横に振るい、一颯(いっさつ)の雷光を宙に描くと、とたんに夏侯覇は肝魂を消し飛ばし、馬上から転げ落ちた。

『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(蛇矛は)穂先が蛇のように曲がっている矛」だという。

井波『三国志演義(3)』(第42回)では、ここで落馬したのは夏侯傑(かこうけつ)。

このありさまを見ると、数十万の兵はなお動揺。曹操も士気の乱れを察し、にわかに退却命令を下す。

諸軍の兵はみな山の崩れるように先を争い合う。不思議な心理が、いやがうえにも味方同士を混乱に突き落とした。誰の背後にも、張飛の形相が追いかけてくるような気がした。

曹操軍は収拾がつかなくなり、散々な態で逃げ続ける。ようやく張遼が追いつき、馬の口輪をつかみ止めてなだめると、曹操は初めて夢の覚めたような顔をし、全軍の立て直しを命じた。

そこへ、敵が長坂橋を焼き払って退いたとの知らせが届く。曹操は、橋を焼いて逃げるようでは大した兵力は残っていないに違いないと悟る。すぐに3か所に橋を架けて劉備を追い詰めろと、命令を改めた。

劉備主従と残兵は江陵(こうりょう)を指して落ちてきたが、このような事情でその方角へ出ることができず、にわかに道を変え、沔陽(べんよう)から漢津(かんしん)へ出ようと昼も夜も逃げ続けていた。

井波『三国志演義(3)』の訳者注によると、「後漢(ごかん)・三国時代に沔陽という県名はない。南朝梁(りょう)の時代に後漢の雲杜県(うんとけん)を沔陽郡とし、隋代(ずいだい)に沔陽県と改めた。現在の湖北省(こほくしょう)仙桃市(せんとうし)」という。

管理人「かぶらがわ」より

曹操が生け捕りを命じたこともあり、無事に劉備のもとへ帰り着いた趙雲。そして阿斗を草むらへ放ってみせる劉備。

さらに、張飛の奮闘で大混乱を来した曹操の大軍。夏侯覇はこの後も長く登場しますが、ここでは馬から転げ落ちていました。

テキストについて

『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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