吉川『三国志』の考察 第145話「一帆呉へ下る(いっぱんごへくだる)」

劉備(りゅうび)は曹操(そうそう)の追撃をかわして江夏城(こうかじょう)に入ったが、そこへ孫権(そんけん)配下の魯粛(ろしゅく)が訪ねてくる。

諸葛亮(しょかつりょう)は心配する劉備をなだめて許しを得ると、呉(ご)へ帰る魯粛に同行し、自ら孫権の説得にあたろうとした。

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第145話の展開とポイント

(01)漢江(かんこう。漢水〈かんすい〉)の渡口(わたし)

劉備は、なお追ってくる曹操軍のため進退窮まり、観念するほかないような状況に陥っていた。

ところがここに一陣の援軍が現れる。先に命を受けて江夏へ向かった関羽(かんう)が、劉琦(りゅうき)から1万の兵を借りることに成功。夜を日に継いで駆けつけ、漢江の近くでようやく追いついたものだった。

(02)漢江

劉備らは関羽が調えた船に乗り、危うい岸を離れる。そのとき江上一面に鬨(とき)の声や鼓の音が起こり、河波を上げながら近づいてくる船列があった。しかしこれは敵ではなく、江夏城から来た劉琦の船団だった。

さらに数里を行くと、諸葛亮や孫乾の船団も合流。劉備は劉琦の進言を容れ、ひとまず江夏城へ入ることにする。先に関羽に5千の手勢を付けて異変がないことを確かめさせ、劉備や諸葛亮、劉琦らが前後して入城した。

長蛇を逸し去った曹操は、各地に散開した追撃軍を漢水のほとりに糾合。江陵城(こうりょうじょう)を奪って一部の兵を留めると、すぐに荊州(けいしゅう)へ引き返した。

(03)荊州(江陵)

荊州は鄧義(とうぎ)や劉先(りゅうせん)などという亡き劉表(りゅうひょう)の旧臣が守っていた。

すでに幼主の劉琮(りゅうそう)は殺されたうえ襄陽(じょうよう)も陥ち、軍民すべて曹操に服していたので城門を開き、ことごとく降伏した。

『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注によると、「(ここでいう荊州は)正しくは江陵」だという。

曹操は荊州に居座り、いよいよ対呉政策に乗り出す。

井波『三国志演義(3)』(第42回)では、ここで曹操が獄中の韓嵩(かんすう)を釈放し、大鴻臚(だいこうろ)に任じたとあった。吉川『三国志』ではこの件に触れていないが、韓嵩が劉表により投獄されたことは先の第92話(03)に見えている。

荀攸(じゅんゆう)に書かせた檄文(げきぶん)を送りつけるとともに、総勢83万の大軍を号して100万と唱え、西は荊陝(けいせん)から東は蘄黄(きこう)にわたる300里の間、煙火連々と陣線を引き、呉の境を威圧。

井波『三国志演義(3)』(第42回)では、「西方は荊・峡(きょう)に連なり、東方は蘄・黄に続くなど……」となっていた。

このことについて井波『三国志演義(3)』の訳者注によると、「荊は荊州(湖北省〈こほくしょう〉江陵市)、峡は峡州(湖北省宜昌市〈ぎしょうし〉)、蘄は蘄州(湖北省蘄春市〈きしゅんし〉)、黄は黄州(湖北省黄岡県〈こうこうけん〉)(を指す)」という。

(04)柴桑(さいそう)

このとき孫権は隣境の変に万一があるのを恐れ、柴桑城まで来ていた。ただならぬ形勢になってきたので魯粛に意見を求める。

すると魯粛は、劉表の喪を弔うという名目で、自ら荊州への使いに立つと言った。その帰途、密かに江夏の劉備と対面してよく利害を説き、彼に援助を与える密約を結んでくるのだとも。

井波『三国志演義(3)』(第42回)では、魯粛は(〈荊州からの〉帰途ではなく初めから)江夏へ弔問に行くと言っている。

(05)江夏

諸葛亮は、今にきっと呉から使者が来るに違いないと言っていた。

そのときは自ら呉へ下り、三寸不爛(ふらん)の舌を振るって孫権と曹操を戦わせる。江夏の味方はいずれにも拠らず、一方の敗れるのを見てから、遠大にしてなお万全な大計の道を採れるようにしてみせるという。

このように聞いても人々は釈然とせず、むしろ不安にさえなる。ところが数日後、本当に魯粛が江夏を訪ねてきた。

賓閣へ迎えられた魯粛は劉琦に弔慰を述べ、劉備には礼物を贈り、まずは型のごとき使節ぶりを見せる。

後堂での酒宴に移ると曹操の実力について尋ね始めるが、劉備はそらとぼけて答えない。これは諸葛亮の忠告によるものだった。

やがて諸葛亮も呼ばれて同席すると、魯粛は、交渉次第では主君の孫権が動かないこともないと言い、諸葛亮が呉へ使いをされたらどうかと勧める。

諸葛亮は心配する劉備をなだめて許しを仰ぐ。そして数日後には、魯粛とともに下江の船に乗ることを得た。

井波『三国志演義(3)』(第42回)では諸葛亮が魯粛に、劉備は昔なじみで蒼梧太守(そうごたいしゅ)の呉臣(ごしん。正しくは呉巨〈ごきょ〉)のもとへ身を寄せようと考えていると話していた。だが吉川『三国志』ではこのことに触れず、呉臣(呉巨)も使われていない。

管理人「かぶらがわ」より

州治(州の役所が置かれた場所)を○州城などと呼ぶ慣習が、けっこう面倒くさいです。荊州の州治たる襄陽城でいいじゃないかと……。

さらに時代によって荊州に(各国が置いた)複数の州治があったりして、ややこしさが増しますよね。

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