吉川『三国志』の考察 第040話「人間燈(にんげんとう)」

もはや自身が帝位に即くことを疑わない董卓(とうたく)だったが、長安(ちょうあん)への道中では立て続けに不吉な現象を目にする。

しかし偽勅使役の李粛(りしゅく)に言いくるめられ、とうとう長安の市街に入った。丞相府(じょうしょうふ)で一泊した翌朝、董卓は意気揚々と宮殿へ向かうが――。

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第040話の展開とポイント

(01)長安へ向かう董卓

董卓は、李粛がもたらした帝位を譲るとの詔(みことのり)を真に受け、郿塢(びう)から長安へ向かっていた。

だが、10里ほど進んだところで車の輪が折れたり、さらに6、7里来たところで馬が暴れて轡(くつわ)を切るなど不可解なことが続く。

董卓が怪しんで尋ねると、李粛は気にかけることはないと言い、董卓が帝位に即くことで旧(ふる)きを捨て、新しきに代わる吉兆だと解釈してみせる。

途中で一泊し、翌日は長安へ入ることになっていたが、その日は珍しく霧が深く、車列が出発するころから狂風が吹きまくり、天地は昏々(こんこん)と暗かった。

董卓は事ごとに気に病み、この天相について尋ねる。すると李粛は紅光紫霧の賀瑞だと言って納得させた。

(02)長安

やがて長安の外城を通り市街へ入ると、民は軒を下ろして道にかがまり、頭を動かす者もいない。

ここで出てきた「軒を下ろして」という表現はよくわからかった。

そして王城の門外には百官が列を成し出迎えていた。王允(おういん)・淳于瓊(じゅんうけい)・黄琬(こうえん)・皇甫嵩(こうほすう)らも道のそばに拝伏し慶賀を述べ、臣下の礼を執る。董卓は大得意になり、車を丞相府へ向かわせた。

(03)長安 丞相府

董卓は翌日に参内することにし、この日は休憩して誰にも会わなかったが、王允だけには会って賀を受けた。また呂布(りょふ)が常のように戟(げき)を抱えて室外に立ち、夜もすがら忠実に護衛した。

ようやく董卓が眠りかけたころ、遠く深夜の街から子どもらのうたう童歌が聞こえる。風に漂ってくる哀切な調子が耳についたので、帳(とばり)の外にいた李粛を呼んだ。

童謡が不吉なものではないかと聞かれた李粛。漢室(かんしつ)の運命の終わりを暗示しているのだから不吉なはずだと、でたらめな解釈を加えて安心させる。

(04)長安

翌朝、董卓は斎戒沐浴(さいかいもくよく)して儀仗(ぎじょう)を整え、昨日に勝る行装を凝らし、朝霧の薄く流れる宮門へ向かって進む。

すると、一旒(いちりゅう)の白旗を担ぎ青い袍(ほう)を着た道士が、ひょっこり道を曲がって隠れる。その白旗には「口」の字がふたつ並べて書いてあった。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第9回)では、黒い袍(うわぎ)に白い頭巾をかぶった道士とある。

また董卓が問うと、李粛は気の狂った祈とう師だと答えた。

「口」の字をふたつ重ねると「呂」の字になる。董卓は鳳儀亭(ほうぎてい)で貂蟬(ちょうせん)と密会していた呂布の姿を思い出し、嫌な気持ちになった。

もうそのとき、儀仗の先頭は宮中の北掖門(ほくえきもん)に差しかかっていた。

(05)長安 内裏(天子〈てんし〉の宮殿)

禁門(宮門)の掟(おきて)なので儀仗の兵士をすべて北掖門に留め、そこから先は20人の武士に車を押させて禁廷(宮中)へ進む。

董卓は、殿門の両側に剣を執り立っている王允と黄琬を見つけ、付き従う李粛に理由を問いただした。

李粛は大声で答える。

「されば閻王(えんおう。閻魔大王〈えんまだいおう〉)の旨により、太師(たいし。董卓)を冥府へ送らんとて、はや迎えに参っているものと覚えたりっ!」

仰天した董卓が膝を起こそうとすると、李粛はかけ声を発して車を押し進めた。王允の合図で御林軍(ぎょりんぐん。近衛軍)の勇兵100余人が駆け集まり、車をひっくり返して董卓を引きずり出すと、無数の戟で滅多打ちにした。

しかし用心深い董卓は、刃も通さない鎧(よろい)や肌着で身を固めていたので、なお致命傷には至らなかった。

董卓が大地に転がりながら呂布を呼ぶと、呂布は画桿(がかん。柄の部分に彩画が施されている)の大戟(おおほこ)を手に眼前に躍り立ち、「勅命により逆賊董卓を討つ!」と叫ぶや否や真っ向から斬り下げた。

この戟は逸れ、右臂(みぎひじ)を根元から斬り落としただけになったが、続いて呂布は胸元をつかみ、喉を刺し貫いた。

やがて董卓の誅殺が知れ渡ると、誰からともなく万歳の声が上がる。文武百官から厩(うまや)の雑人(ぞうにん)や衛士に至るまで皆で万歳を唱え合い、どよめきは小半時ほど鳴りやまなかった。

董卓このとき54歳。初平(しょへい)3(192)年壬申(みずのえさる)、4月22日の真昼の出来事だった。

呂布が李儒(りじゅ)を捕らえるよう言うと、李粛が兵をひきいて丞相府へ向かった。だが彼が丞相府へ入らないうちに、一団の武士に囲まれた李儒が引きずり出されてくる。王允はただちに首を刎(は)ね、街頭にさらさせた。

さらに郿塢の董卓一族を掃討する者を募ったところ、呂布が真っ先に立ち上がる。王允は呂布に加えて李粛と皇甫嵩にも兵を授け、総勢3万余騎を郿塢へ向かわせた。

井波『三国志演義(1)』(第9回)では、呂布・李粛・皇甫嵩が5万の兵をひきいて郿塢へ向かっていた。

(06)郿塢

郿塢には郭汜(かくし)・張済(ちょうさい)・李傕(りかく)らが1万余の兵を擁して留守を護っていたが、董卓が殺されたとの飛報を聞くとみな涼州(りょうしゅう)方面へ落ちてしまう。

最初に城中に乗り込んだ呂布は、何者にも目もくれず貂蟬の姿を捜す。後堂の一室で彼女を見つけ、董卓を殺したことを伝えると、すぐに乱軍の中を駆け出し長安へ連れ帰った。

城内に皇甫嵩や李粛の兵がなだれ入ると、殺戮(さつりく)、狼藉(ろうぜき)、放火、奪財、あらゆる暴力を抵抗なき者へ下していく。90幾歳という董卓の老母をはじめ、わずか半日の間に誅殺された董卓一族は男女1,500余人にも上った。

城内の金蔵にあった黄金23万斤と白銀89万斤をはじめ、ほかの庫内から見つかった金繡(きんしゅう。金糸の縫い取りのある布)綾羅(りょうら。模様を織り出した絹と薄い絹)や珠翠(しゅすい。真珠と翡翠〈ひすい〉)珍宝が続々と長安へ運ばれる。

また800万石(せき)という大量の米粟(べいぞく)は、王允の命により半分が民に施され、もう半分が官庫に納められた。

(07)長安

長安の男女は街頭にさらしてあった董卓の首を蹴飛ばし、首のない屍(しかばね)の臍(ほぞ)に蠟燭(ろうそく)を灯し、手を叩いた。

生前、人一倍に肥満していた董卓なので、膏(あぶら)が煮えるのか、臍の灯明は夜もすがら燃え続け、翌朝になっても消えなかったという。

董卓の弟の董旻(とうびん)と兄の子の董璜(とうこう)も、手足を斬られて市にさらされた。李儒は日ごろから人々に強く憎まれていたため、その最期は誰よりも悲惨なものになった。

李儒についてはすでにこの第40話(05)で首を刎ねられ、街頭にさらされたとあったはずだが――。

こうしてひとまず誅滅のことが片づくと、王允は都堂(朝廷の大会議室)に百官を集めて大宴を張る。

この場にひとりの役人から、何者かが董卓の腐った屍を抱き、街路で嘆いているとの報告が届く。命令を受けて捕らえられたのが侍中(じちゅう)の蔡邕(さいよう)だったため、人々はみな驚いた。

蔡邕は忠孝両全の士で、曠世(こうせい。滅多にない珍しいこと)の逸材と言われる学者でもあった。人々はその人物を惜しんだが、王允は獄に下して許そうとしない。そのうちに獄中で何者かに絞め殺されてしまった。

(08)長安 呂布邸

王允が都堂で催した祝宴に、ただひとり呂布だけが顔を見せていなかった。長安の民が七日七晩も踊り狂い、酒壺(しゅこ)を叩いて董卓の死を喜んでいたとき、彼は門を閉じ、ひとり慟哭していた。

郿塢城の炎の中から助け出された貂蟬だったが、呂布が再び戦場へ出ていった後、後園の小閣に入り自刃してしまったのだ。

井波『三国志演義(1)』(第9回)では貂蟬が自刃していない。

貂蟬が自刃した理由がわからず、苦悩する呂布。

その後、彼女の肌に秘められていた鏡囊(かがみぶくろ)を何げなく解いてみると、中から一葉の桃花箋(とうかせん。詩文や手紙を書く紙の類い)が出てきた。

それには彼女の筆らしい一編の詩が書かれており、詩を解さない呂布ではあったが、何度も読み返しているうちに意味だけはわかった。

ついに彼女の真の目的を悟った呂布は、遺体を後園の古井戸へ投げ込むと、それきり貂蟬のことは考えなかった。

管理人「かぶらがわ」より

暴虐を極めた董卓でしたが、ここでとうとう誅殺されました。

小説の世界では体を張った貂蟬の活躍があったわけですが、吉川『三国志』でも詩情豊かに描写されていたと思います。

ですが、これでまた新たな権力争いが始まることに――。まだまだ平穏な時代は訪れないのですね。

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