吉川『三国志』の考察 第158話 「鳳雛・巣を出ず(ほうすう・すをいず)」

先に曹操(そうそう)の許しを得て周瑜(しゅうゆ)の説得にあたり、失敗した蔣幹(しょうかん)。黄蓋(こうがい)の投降が真実か見極めるため、再び長江(ちょうこう)南岸の周瑜の本営を訪ねる。

だが、周瑜は前回と態度を一変させ、前に来たときに自分の寝房から軍の機密書簡が盗まれたとして、蔣幹を西山(せいざん)の山小屋に閉じ込める。蔣幹はうまく逃げ出し山中をさまようも、思わぬ人物の住まいへたどり着く。

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第158話の展開とポイント

(01)長江(ちょうこう)の北岸 曹操(そうそう)の本営

曹操は、蔡兄弟(さいきょうだい。蔡和〈さいか〉と蔡仲〈さいちゅう。蔡中〉)と闞沢(かんたく)から伝えてきた話がうますぎる嫌いもあると、諸将に諮ってみる。

そのとき蔣幹(しょうかん)が先に周瑜(しゅうゆ)の説得に失敗した罪を償いたいとし、再び呉(ご)へ渡り、蔡兄弟や闞沢の申し越しが真実か否かを確かめてくると言う。

いずれにせよ、曹操はにわかに決定できない大事と深く用心していたので、「それも策だ」と乞いを容れた。

蔣幹が周瑜の説得に失敗したことについては、先の第152話(04)を参照。

(02)長江の南岸 周瑜の本営

蔣幹は小舟に乗り、以前のごとく飄々(ひょうひょう)たる一道士を装い呉の陣へと上陸。そのとき呉の中軍には、彼より先に賓客が来て周瑜と話し込んでいた。襄陽(じょうよう)の名士たる龐徳公(ほうとくこう)の甥で「龐統(ほうとう)」という人物である。

一部の人士の間で「鳳雛(ほうすう)」と称されていた彼は、諸葛亮(しょかつりょう)よりふたつ年上にすぎず、その高名に比べて存外に若かった。

龐統の生年についてはイマイチはっきりしないところもあるが、諸葛亮は光和(こうわ)4(181)年生まれ。

周瑜は、荊州(けいしゅう)が滅んだ後、この近くの山に住んでいると聞くと、幕賓として力を貸してほしいと頼む。同意した龐統に曹操の大軍を撃破する策を尋ねたところ、火計の一策しかないとの答え。これは周瑜や諸葛亮らの考えとも同じだった。

周瑜や諸葛亮の考えについては先の第154話(04)を参照。

こう話していたところへ、また蔣幹が訪ねてきたとの取り次ぎがあった。それを機に龐統は暇(いとま)を告げて帰っていく。

蔣幹は案内されてきたが、前回と違い周瑜は出迎えもせず、上座に着いたまま傲然(ごうぜん)と睥睨(へいげい)していた。

蔣幹がさりげなく親友ぶりを寄せると、周瑜はいきなり怒りだす。そして(蔣幹が)前に来たときに、寝房から軍の機密を記した書簡がなくなっていたことを伝える。

蔣幹はとぼけたが周瑜は許さず、西山(せいざん)の山小屋へ放り込んでおくよう命じた。

機密の書簡がなくなっていたことについては、先の第152話(05)を参照。

(03)西山 物見小屋

番兵が昼夜小屋の四方に立ち見張っており、蔣幹は日々煩悶(はんもん)して寝食もよく取れなかった。だがある夜、番兵に隙(すき)があったのでふらふらと小屋を抜け出す。

(04)西山 龐統の庵(いおり)

蔣幹が山中の闇をさまよいながら行き暮れていると、彼方の林の中にチラと灯火が見えた。読書をする声に近づいてみると、庵の中からとがめられる。お互いに誰かわかると、蔣幹は山小屋に監禁された経緯を話し、龐統も庵の中へ迎え入れた。

蔣幹は話をしながら探りを入れ、曹操に仕えるよう勧めてみる。承諾した龐統はその夜のうちに庵を捨て、蔣幹とともに呉を脱した。

谷間づたいに樵夫道(そまみち。樵〈きこり〉が使うような道)を探し、やがて大江の岸辺へと出る。そこでふたりは舟を拾い江北(こうほく)へ急いだ。

(05)長江の北岸 曹操の本営

曹操は高名な龐統が来たと聞き非常に喜ぶ。賓主の座を分け下へも置かない。すっかり打ち解けて蔣幹の手柄を賞し、酒宴に明けた翌日、馬を引かせ一丘へ登った。

龐統は布陣を一望して激賞。喜んだ曹操は彼を誘って丘を下り、今度は水寨(すいさい)の港門や大小の舟行などを見せて歩く。龐統はこれら水軍の配備についても高く評価した。

立ち帰った曹操は再び彼を歓待の宴に招き、夜もすがら孫呉(そんご)の兵略を談じ、古今の史に照らして諸家の陣法を評するなど興は尽きない。

その間に龐統はたびたび中座して室外に出ては、また帰って席に着き話し続けていた。曹操が顔色が悪いようだと心配すると、龐統は舟旅の疲れだと言う。

そこで曹操が医者を呼ぶと言うと、龐統は「ご陣中には名医がたくさんおられるでしょう。お願いします」と応ずる。

曹操が、なぜ医者が多いだろうとお察しになったのかと尋ねると、龐統は、曹操軍の将兵の大半が北国の生まれであることに触れたうえ、大江の水土や船上での生活に慣れない者をあのようになさっておいては、この龐統同様、奇病にかかり心身ともに疲れ果て、合戦の際にも全能力を振るい出すことができないだろうと言う。

この言葉は確かに曹操の胸中の秘を射たものだった。病人の続出は悩むところになっており、その対策や原因については軍中でもやかましい問題になっている。初め曹操は驚きもし、狼狽(ろうばい)ぎみだったが、ついに打ち割って妙策を乞うた。

龐統は一策を施し、布陣を改めるよう勧める。

まずは、大小の船を残らず風浪が少ない湾口の内側に集結させ、船体の大きさに応じて縦横に組む。大艦30列、中船50列、小船はその便に応じ、船と船との首尾には鉄の鎖をもって固くつなぎ、環をもって連ね、太綱をもって扶(たす)けるなどする。

こうしたうえで交互に渡り橋を架けて自由に往来させれば、諸船の人々や馬すら、平地を行くがごとく意のままに歩けるだろうと。

しかも、大風搏浪(はくろう)の荒日でも諸船の動揺は至って少なく、軍務が平易に運び兵気は軽快に働けるから、自然と病に伏す者はなくなるだろうとも。

龐統はさりげなく、よく原因を探究し、さらに賢考されたほうがよいと言いつつ、お味方に病人が多いということは、まずもって呉のほうでは悟らないことだとも言い、少しでも早く適当な処置を取られたなら、必ず他日、呉を討ち破ることができるでしょうと告げた。

曹操も急を要すと思ったのか、たちまちこの言を容れる。翌日から多くの鍛冶を集め、連環の鎖や大釘(おおくぎ)など夜を日に継いで無数に作らせた。龐統は悠々と客になりながら、その様子をうかがいほくそ笑んでいた。

ある日、曹操と打ち解けて軍事を談じたとき、龐統は改めてこう言った。

「密かに思うに、呉の諸将はみな周瑜に心から服しているわけではありません。周都督(しゅうととく。周瑜)を恨み、機もあればと返忠(かえりちゅう。裏切り)をもくろむ者は、主なる大将だけでも五指に余ります」

そして、自分が行き弁舌を振るい、彼らを説いて降らせることを提案する。

曹操は、呉へ帰り同志と語らい、密かに計を施してきてほしいと言い、もし成功されれば貴下(あなた)を「三公」に封ずるだろうとも言った。

管理人「かぶらがわ」より

龐統が曹操に「連環の計」を勧めたという話は正史『三国志』には見えません。諸葛亮に比べると地味な印象の彼を、ここで目立たせておこうという意図があるのかもしれませんけど……。

この時点で、これほど龐統が呉側に肩入れする理由があるのか? など、その起用法にはいくらか疑問を感じました。曹操が荊州を奪ったから、という理由だけではいかにも弱すぎる気がします。

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吉川『三国志』 (6) 赤壁の巻
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