吉川『三国志』の考察 第067話 「仲秋荒天(ちゅうしゅうこうてん)」

宛城(えんじょう)と淯水(いくすい)で張繡(ちょうしゅう)に敗れたあと、しばらく許都(きょと)から動かなかった曹操(そうそう)。

孫策(そんさく)の助力を取りつけるや30余万の大軍を動員し、今度は淮南(わいなん)の袁術(えんじゅつ)討伐へ向かう。

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第067話の展開とポイント

(01)呉城(ごじょう)

袁術(えんじゅつ)の使者に返書を持たせて追い返した後、ひとりおかしがる孫策(そんさく)。しかしその一方で、必ず怒り立って攻めてくるに違いないと、大江の沿岸一帯に兵船を浮かべて備えていた。

そうしていたところへ許都(きょと)の曹操(そうそう)の使者が到着。天子(てんし。献帝〈けんてい〉)の詔(みことのり)を伝え孫策を会稽太守(かいけいのたいしゅ)に任ずる。

孫策は詔を受けたが同時に朝命として曹操からの要求もあった。それは、ただちに淮南(わいなん)へ出兵し偽帝袁術を誅伐せよというもの。

もとより拒むところではなく、玉璽(ぎょくじ)を預けた一半の責任もあるので、孫策はこの命にも従う旨の返答をする。

使者が帰った日、長史(ちょうし)の張昭(ちょうしょう)は、曹操へ急書を発し、こちらは江を渡り側面を突くので、許都から大軍を下して袁術の正面に当たってほしいと伝えるよう勧める。

これにはもっぱら曹操軍に主戦をやらせ、こちらはあくまでも援兵の立場を取るという意図がある。こうしておけば後日こちらに危急があったとき、曹操に援兵を要求することもできるだろうというのだった。

孫策は進言に感謝し、すぐに書簡を持たせた使者を許都へ遣わす。

(02)許都

この(建安〈けんあん〉2〈197〉年の)秋、丞相府(じょうしょうふ)の人々が「丞相は近ごろ愚に返ったんじゃないか?」と憂い合うほど、曹操は少しぼんやりしていた。

曹操は張繡(ちょうしゅう)に惨敗し帰京すると、戦死した典韋(てんい)のために新たな廟(びょう)を建てた。

典韋の戦死については先の第64話(04)を参照。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注によると「『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・典韋伝)では、典満を中郎より位の低い郎中(ろうちゅう)に任じたとある」という。

そこへ呉の孫策から急書が届くと一議に及ばず承知の旨を返事し、即日30余万の大軍を動員する。建安2(197)年9月、この大軍は続々と許都を発った。

(03)行軍中の曹操

南征軍は30万と号していたが、実数は約10万の歩兵と4万の騎兵、それに1千余輛(りょう)の輜重(しちょう)で編制されていた。

許都を発つにあたり、曹操は予州(よしゅう。豫州)の劉備(りゅうび)と徐州(じょしゅう)の呂布(りょふ)へも参戦の誘文を出しておいた。

この誘文を受け取った劉備は、関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)らの精猛を引き連れて予州の境で合流。

曹操がしばらく休憩して語らっていると、劉備が関羽の手からふたつの首級を差し出させる。韓暹(かんせん)と楊奉(ようほう)の首だった。

呂布の命により沂都(ぎと)と瑯琊(ろうや。琅邪)に赴任したふたりだったが、たちまち良民を苦しめ始めたため、密かに関羽と張飛に命じ酒宴に招いて殺させたのだという。

井波『三国志演義(2)』の訳者注によると「沂都という地名は後漢(ごかん)・三国時代にはない。地理的に見ると、この地は琅邪国の役所があった開陽県(かいようけん)に相当する」という。

劉備は独断で誅伐したことを詫びるが、曹操は気にかけず、呂布への執り成しも請け合う。

今年は徐州以南の淮水(わいすい)地方で大雨が続いたため、行軍は泥濘(でいねい)に行き悩むことひと通りでなかった。

やがて曹操は徐州の境で呂布の出迎えを受ける。その後、駅館で歓迎の宴が催されると、劉備も同席して袁術討伐の気勢を上げた。

この席で曹操が呂布に、朝廷に奏して左将軍(さしょうぐん)に任ずるよう取り計らっておいたことを伝える。これを聞きさらに意気込む呂布。

曹操・劉備・呂布の三軍は一体となって南進を続け、その陣容はまったく成った。曹操を中軍として劉備は右に備え、呂布は左に備えた。

(04)淮南 寿春(じゅしゅん)

袁術は国境からの急報を受け、とりあえず橋蕤(きょうずい)を防戦に向かわせる。

井波『三国志演義(2)』(第17回)では、このとき橋蕤は5万の兵をひきいていた。

そのうえですぐに大軍議を開いたが、議論している間にも敵軍が国境を破って侵入してきたとの報告が届く。袁術は自ら5万騎をひきいて寿春城を出て、途中で敵を食い止めようとする。

そこへ橋蕤が敵の夏侯惇(かこうじゅん)と渡り合い、乱軍の中で馬上から槍で突き伏せられたとの報告が届く。

中軍が動揺し始め士気もひるむと、袁術は目覚ましい抗戦もせず全軍で総退却してしまう。そして、寿春城の八門を固く閉ざし長期戦を決意。

呂布の軍勢は東から、劉備の軍勢は西から、曹操の軍勢は北方の山を越えて淮南の野を真下に望み、すでに本営を寿春から遠くない地点まで押し進めていた。

城中の諸将が評議にばかり暮らしているところへ、今度は西南の方面から孫策が船手をそろえて攻め寄せてくるとの知らせが届く。

ここで楊大将(ようたいしょう)が、こうなった以上は御林(ぎょりん。近衛)の護衛軍をひきいて一時淮水を渡り、ほかへ遷(うつ)って自然の変移を待つしかないと進言。

楊大将というのがわかりにくい。『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫策伝)によると、袁術の長史を務めていたのは楊弘(ようこう)だという。ただ、『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第15回)でも楊大将としているので、吉川『三国志』でもあえてそうしてあるのかもしれない。

管理人「かぶらがわ」より

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吉川『三国志』 (03) 草莽の巻
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