吉川『三国志』の考察 第244話「七歩の詩(しちほのし)」

臨淄(りんし)の曹植(そうしょく)のもとに、兄の曹丕(そうひ)から、父の葬儀に参列しなかった罪を問う使者が着く。だが使者は、曹植の側近たる丁儀(ていぎ)や丁廙(ていい)の侮辱を受けて追い返された。

怒った曹丕は、許褚(きょちょ)に命じて曹植らを捕らえる。曹植・丁儀・丁廙は魏王宮(ぎおうきゅう)へ連行され、まず丁兄弟が斬られた。曹丕は母の卞氏(べんし)の懇願を受け、曹植にある難題を突きつける。

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第244話の展開とポイント

(01)鄴都(ぎょうと) 魏王宮

弟で臨淄侯(りんしこう)の曹植のもとへ遣った問罪の使者は、その寵臣である丁儀と丁廙にひどく侮辱されて帰った。怒った曹丕は許褚に厳命を下す。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「臨淄は青州(せいしゅう)に属する県。戦国(せんごく)時代の斉国(せいこく)の首都であった」という。

(02)臨淄

許褚は精兵3千余を引っ提げ、ただちに臨淄城へ殺到。配下の将士は防ぎ戦う暇も与えず閣中へ混み入り、この日も遊宴していた丁儀や丁廙をはじめ、曹植をも捕縛して車に乗せ、たちまち鄴都の魏城へ帰ってきた。

(03)鄴都 魏王宮

曹丕は一類を階下に引かせると、一眄(いちべん)をくれるやいな、「まず、そのふたりから先に誅殺を加えろ」と許褚に命ずる。剣光の閃(ひらめ)く下、ふたつの首は無造作に転がった。

そのとき曹丕の後ろにあわただしい足音が聞こえ、たまげるような老女の泣き声が、彼の足元へすがる。

ふたりの家臣を目の前で斬られ、血潮の中に喪心していた曹植が、青ざめた顔を上げてふと見ると、それは自分たち兄弟を生んだ実の母たる卞氏だった。

卞氏は、曹植が先王(曹操〈そうそう〉)の大葬に会さなかったことを激しく叱りつつ、話を聞いてほしいと言い、曹丕を偏殿(へんでん)の陰へ伴う。

母の涙ながらの懇願を聞くと、曹丕は言った。

「もう、もう。そのようにお嘆きなさいますな。なあに、もとより弟を殺す気などありません。ただ懲らしめのためですから」

そのまま曹丕は奥へ隠れ、数日は政を執る朝にも姿を見せなかった。華歆(かきん)がそっと来て機嫌を伺う。そして話のついでに言った。

「先日、母公が何か仰せになったでしょう。曹植を廃すなかれ、と御意あそばしはしませんか?」

華歆は、立ち聞きしたわけではないと言う。それくらいなことはわかりきっていると。さらに言葉を続け、今のうちに御舎弟を除いておしまいにならないと、後には大きな患いになると告げる。

曹丕が母公と、曹植を廃すようなことはしないと約束してしまったと聞き、舌打ちする華歆。だが、ここで一策をささやく。

今ここへ御舎弟を呼び出し、その詩才を試してみて、もし不出来だったらそれを口実に殺してしまうのだと。

また、もしうわさ通りの才華を示したら、官爵を貶(おと)して遠地へ追い、この天下繁忙の時代に、詩文にのみふけっている輩(やから)の見せしめとしたらよいとも。

曹丕は自室へ曹植を呼び出し、今日この場で詩文の才を試すと告げる。そして、壁に掛けてある大幅古画を指した。

二頭の牛の格闘を描いた墨画で、それに何人(なにびと)か蒼古(そうこ)な書体をもって、「二頭闘檣下(にとうしょうかにたたこうて) 一牛墜井死(いちぎゅういにおちてしす)」と賛してある。

その題賛の字句を一字も用いず、闘牛の詩を作ってみよという難題を与えたのだった。

料紙と筆を乞い受けると、曹植はたちどころに一詩を賦(ふ)し、兄の手元へ差し出す。牛という字も闘(たたかい)という字も用いず、立派な「闘牛之詩」が賦されてあった。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第79回)では、曹植がこの詩を七歩あるく間に完成させたとある。

曹丕も大勢の臣も舌を巻き、その才に驚いた。あわてた華歆は、机の下から曹丕の手に何か書いたものを渡す。ふと目を伏せて見ると、曹丕は声を高めて次の難題を出した。

「植っ。立て! 室内を七歩あゆむのだ。もし七歩あゆむ間に一詩を作らなければ、汝(なんじ)の首は、八歩目に床へ落ちているものと思え」

曹植は壁に向かって歩みだす。一歩、二歩、三歩と……。そして歩とともに哀吟した。

豆ヲ煮ルニ豆ノ萁(まめがら)ヲ燃(た)ク
豆ハ釜中(ふちゅう)ニ在(あ)ッテ泣ク
本(もと)是(こ)レ同根ヨリ生ズルヲ
相煎(に)ルコト何ゾ太(はなは)ダ急ナル

新潮文庫の註解によると「(この詩では)同母兄弟である曹丕と曹植が、豆と豆がらにたとえられている」という。

井波『三国志演義(5)』(第79回)では、曹植がこの詩を(七歩あるく間ではなく、)すぐに口で唱えたとある。

さらに井波『三国志演義(5)』の訳者注によると、「一般にはこの詩が『七歩の詩』と見なされている(『世説新語〈せせつしんご〉』文学篇)」ともいう。

さすがの曹丕もついに涙を流し、群臣もみな泣いた。詩は人の心琴を奏で、人の血を搏(う)つ。

曹植の詩は彼の命を救った。即日、曹植は安郷侯(あんきょうこう)に貶されて、孤影を馬の背に託し、悄然と兄の魏王宮から別れ去ったのである。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、第244話で描かれた「七歩賦詩」については(正史『三国志』の)『魏書・曹植伝』には見当たらず、『世説新語・文学篇』から出たものだということです。

東阿王(とうあおう)だったころの曹植が、曹丕の前で、七歩あるくうちに詩を作るよう命ぜられたことがあったのだと。

史実では、丁儀と丁廙が処刑されたのが魏の黄初(こうしょ)元(220)年。曹植はこのとき確かに臨菑侯(りんしこう)でした。

ですがその後、曹植が雍丘王(ようきゅうおう)から東阿王に移封されたのが魏の太和(たいわ)3(229)年。すでに曹丕ではなく、息子の曹叡(そうえい)の時代に入っていました。

ということで、出典の記事にも混乱(というより意図的なものかも)が見られるようですが、これらの材料をうまく組み合わせた話になっていると思います。ひどい話にも見えますし、そうではないようにも見えます。何とも心に響くエピソードでした。

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