魏(ぎ)に降った苟安(こうあん)の流言が効き、前線から成都(せいと)に呼び戻された諸葛亮(しょかつりょう)。彼は劉禅(りゅうぜん)の誤解を解くと、すぐに漢中(かんちゅう)へ引き返す。
建興(けんこう)9(231)年2月、諸葛亮は鹵城(ろじょう)を攻略したうえ、さらに隴上(ろうじょう)の麦を確保するべく、自ら軍勢ひきいて進む。だが、すでに隴上には司馬懿(しばい)の軍勢が充満していた。そこで諸葛亮は一計を案じ――。
第298話の展開とポイント
(01)成都
諸葛亮は成都へ還ると、すぐ参内して劉禅に奏する。
「いったいいかなる大事ができて、かくにわかに、臣をお召し還しあそばされましたか」
もとより何の根拠もないことなので、劉禅はただうつむいていたが、やがて正直に答えた。
「久しく相父(しょうほ。諸葛亮に対する敬称)の姿を見ないので、慕わしさのあまり召し還したまでで、別に理由はない」
諸葛亮は色を改め、おそらくはこれ何か内官の讒(ざん)によるものではありませぬかと、突っ込んで尋ねる。
劉禅は黙然たるままだったが、こう言って深く後悔のさまを示した。
「いま相父に会い、初めて疑いの心も解けたが、悔ゆれども及ばず。まったく朕の誤りであった」
(02)成都 丞相府(じょうしょうふ)
諸葛亮は丞相府へ退がると、ただちに内官の言動を調べさせる。出師(すいし。出兵)の不在中に彼を誹謗(ひぼう)したり、根もない流説を触れ回ったりしていた悪質な者数人は、前からわかっていたのですぐに連れてこられた。
諸葛亮が詰問すると、ひとりの内官は懺悔(ざんげ)してまっすぐに自白する。
「戦いがやみさえすれば、暮らし向きも気楽になり、諸事以前のような栄耀(えいよう)が見られると存じまして。つい……」
諸葛亮は痛嘆して、彼らの小児病的な現実観を哀れむ。
説諭を受けた内官たちはみな、深く頭(こうべ)を垂れたまま、ひとことの言い訳もできなかった。
さらに諸葛亮が風説の出どころを手繰ってみると、苟安であることが明瞭になる。
★先に苟安が蜀から魏へ降ったことについては、前の第297話(03)を参照。
苟安の隠れ家へ丞相府から保安隊の兵が捕縛に向かったものの、彼は風を食らい、とうに魏へ逃げ失せていた。
諸葛亮は百官を正し、蔣琬(しょうえん)や費禕(ひい)などの大官にも厳戒を加え、意気を改めて漢中へ向かう。
(03)漢中
連年の出師に兵の疲れも思われたので、諸葛亮は全軍をふたつに分け、一半をもって漢中に残し、もう一半をもって祁山(きざん)へ進発。そして、これが戦場にある期間を約3か月と定め、百日交代の制を立てた。
要するに100日ごとに、二軍を日月(じつげつ)のごとく戦場に入れ替え、絶えず清新な士気を保ち、魏の大軍を砕かんとしたものである。
★『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第101回)では、この仕組みを諸葛亮に献言したのは楊儀(ようぎ)。
(04)洛陽(らくよう)
蜀の建興9(231)年は魏の太和(たいわ)5年にあたる。この春の2月、またも急は洛陽の人心へ伝えられ、さっそく曹叡(そうえい)は司馬懿を招き、軍政作戦をすべて託した。
(05)長安(ちょうあん)
司馬懿は早くも長安へ出て、全軍の配備にあたった。左将軍(さしょうぐん)の張郃(ちょうこう)を大先鋒とし、郭淮(かくわい)に隴西(ろうせい)の諸郡を守らせる。司馬懿の中軍は堂々、左翼右翼、前後軍に護られて、渭水(いすい)の前に大陣を布(し)いた。
(06)渭水 司馬懿の本営
祁山は霞(かす)み、渭水の流れも温んできたが、春日の遅々たる天、久しく両軍の鼓も鳴らない。
ある日、司馬懿は張郃と会って語る。
「思うに孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)は、相変わらず兵糧の悩みに種々(くさぐさ)の工夫を巡らせているのだろう」
「隴西地方の麦もようやく実ってきたころだ。きっと彼は静かに軍勢を向けて、これを刈り取り、兵食の資(たすけ)に充てようと考えるに違いない」
こう言って張郃と4万騎を渭水の陣に残し、その余の大軍を自らひきいて隴西へ向かう。
(07)鹵城
司馬懿の六感は誤らなかった。時しも諸葛亮は、隴西の麦を押さえる目的で鹵城を包囲し、守将の降を容れて質問していた。
「いま麦は、どの地方がよく熟しているか?」
これに降将が答える。
「今年は隴上のほうが早く熟れているようです。それに隴上のほうが麦の質も上等です」
こう聞いた諸葛亮は、占領した鹵城には張翼(ちょうよく)と馬忠(ばちゅう)を留め、自ら残余の軍勢をひきいて隴上へ出ていった。
★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「隴上は地域名。隴山、現在の陝西省(せんせいしょう)隴県以西を指していう。現在の甘粛省(かんしゅくしょう)に相当」という。
(08)隴上の近く
諸葛亮のもとに、先駆した小隊から報告が届く。
「隴上には入れません。すでに魏の軍馬が充満しております。中軍を望むと司馬懿の旗が見えます」
諸葛亮は深く期し、その夕べに沐浴(もくよく)して身を清め、平常乗用の四輪車と同じ物を4輛(りょう)も引き出させる。
やがて夜に入るや、帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)に3人の将を呼び、遅くまで何事か密やかに語らっていた。
最初に姜維(きょうい)がそこを出て、一輛の車を引かせて自陣へ帰る。続いて馬岱(ばたい)が、また一輛の車を引いて帰った。最後に魏延が同じように、一輛の車を自陣へ運んでいく。
残った一輛の車は、しばし星の下に置かれていたが、やがて営を出てきた諸葛亮が乗り、関興(かんこう)に出陣を促した。関興は怪しげな一軍を差し招き、たちまち車の周りに配す。
まず、車の左右に24人の屈強な武者が立ち並び、彼らが車を押した。みな裸足で、黒き戦衣を着けており、髪を振りさばき、片手に鋭利な真剣を提げている。さらに4人、同じ姿の者が車の先に立ち、北斗七星の旗を護符のごとく捧げていた。
そしてなお500人の鼓兵が鼓を持って従い、槍隊(やりたい)の1千余騎は前後幾段にも分かれて、諸葛亮の車を衛星のように取り囲む。
諸葛亮の装束も、常とは少し変わっていた。いつもの綸巾(かんきん。隠者がかぶる青糸で作った頭巾。俗に「りんきん」と読む)ではなく、頭には華やかな簪冠(しんかん。簪〈かんざし〉で髪を留めた冠)を頂いている。
衣はあくまで白く、佩剣(はいけん)の珠金が夜目にも燦爛(さんらん)としていた。
また関興やほかの旗本は、みな天蓬(てんぽう)の模様のある赤地錦の戦袍(せんぽう)を着け、馬を飛ばせば、さながら炎が飛ぶかと怪しまれた。
★井波『三国志演義(6)』(第101回)では、関興に天蓬元帥(神話に登場する神)の扮装(ふんそう)をさせたとある。
かくて天より降れる鬼神の軍かと疑われるこの妖装軍は、深更(深夜)に陣地を発して隴上へ向かう。
それらの後から約3万の歩兵も前進。彼らは手に手に鎌を持っていた。日ごろの行軍編制とはまるで違う、何にしても異様なるありさまだった。
★井波『三国志演義(6)』(第101回)では、諸葛亮は3万の軍勢の全員に鎌と縄を持たせ、麦の刈り取りに備えさせたとある。
(09)隴上 司馬懿の本営
本軍の前隊を哨戒していた物見の兵は仰天する。こけ転(まろ)んで部将に告げ、部将は中軍へ急報した。
鬼神の軍が来たと聞くと、司馬懿はあざ笑い、陣頭へ馬を進める。時はまさに丑(うし。午前2時ごろ)の真夜中であった。
管理人「かぶらがわ」より
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』には、このときの諸葛亮の出陣に対する魏でのやり取りが見えました。
魏の論者は、諸葛亮の軍には輜重(しちょう)がないので、きっと兵糧はつながらない。これは攻撃せずとも自滅するだろうから、兵を労する必要はない、と主張したのだと。
またある者は、上邽(じょうけい)付近の麦を刈り取り、敵の食糧補給の道を絶ってしまおうと考えた。しかし曹叡はいずれの意見にも従わず、次々と兵を派遣して司馬懿の軍を増員し、別に使者を遣って麦の監視を命じた。
司馬懿は諸葛亮と対峙(たいじ)するに及び、この麦を頼みとして、軍の食糧を確保したのであると。
さらに『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・諸葛亮伝)の裴松之注に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』にも、この年(231年)の祁山出撃の記事が見えます。
それによると、諸葛亮が上邽で魏の郭淮や費曜(ひよう)らを撃破し、その地の麦を大いに刈り取ったのだということでした。
妖装軍については、『三国志演義』が得意とするパターンの創作なのでしょうけど……。元ネタには史実(裴松之注ですが)の要素があるとわかり、いくらか驚かされました。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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