吉川『三国志』の考察 第278話「出師の表(すいしのひょう)」

諸葛亮(しょかつりょう)は、魏(ぎ)の要職を占めるまでになった司馬懿(しばい)を警戒していた。

その司馬懿が曹叡(そうえい)に免官され、故郷へ帰されたと聞くや、諸葛亮は劉禅(りゅうぜん)に「出師(すいし)の表」を奉呈。宿願の北伐を断行し、自ら大軍をひきいて成都(せいと)を発つ。

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第278話の展開とポイント

(01)成都 丞相府(じょうしょうふ)

馬謖(ばしょく)は、魏における司馬懿の立場を自己分析してみせたうえ、諸葛亮に一計を献ずる。

「司馬懿は自ら封を乞うて西涼州(せいりょうしゅう)へ着任しました。明らかに彼の心には、魏の中央から身を避けたいものがあるのでしょう。当然、魏の重臣どもはその行動を気味悪く思い、狐疑していることも確かです」

「そこで、司馬懿に謀反の兆しありと、世上へ流布させ、かつ偽りの回文を諸国へ放てば、魏の中央はたちまち惑い、司馬懿を殺すか、官職を褫奪(ちだつ。奪うこと)して辺境へ追うかするに相違ありません」

馬謖の説くところはよく諸葛亮の思慮とも一致した。諸葛亮は彼の献言を容れ、密かにこの策を行う。いわゆる対敵国内流言策である。旅行者を用い、隠密を用い、あるいは縁故の家から家へ、女子から女子へなど、あらゆる細胞が利用された。

一方で偽の檄文(げきぶん)を作り、諸州の武門へ発送。案のごとく、司馬懿に対して、世間にいろいろな陰口が立ってくる。

(02)洛陽(らくよう)

そのようなところへ、檄文の一通が、洛陽や鄴城(ぎょうじょう)の門を守る吏員の手に入り、ただちに魏の宮中へ上達された。

原文には「洛陽鄴城の門を守る」とあったが、これだと意味が通じにくいと思う。一応「や」を挟んで「洛陽や鄴城」としてみたが、ここはどう解釈すべきかわからなかった。

檄文は過激な辞句で埋まっている。魏三代にわたる罪状を数え、天下の不平の徒へ向かって、打倒魏朝を扇動したものだった。

曹叡は、これが司馬懿の檄文なのかと判断に迷う。華歆(かきん)や王朗(おうろう)は、司馬懿が本性を現したものだと言ったが、なお曹叡は決めかねていた。

そのうち曹真(そうしん)が、穏当な反対意見を述べる。

「まさかそのようなこともあるまい。もし軽々しく征伐などして、それが真実でなかったら、求めて君臣の間に擾乱(じょうらん)を醸すものではないか?」

結局、漢(かん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)が雲夢(うんぼう)に行幸した故知に倣い、曹叡自ら安邑(あんゆう)へ遊ぶことになる。

『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注によると、「高祖が謀将陳平(ちんぺい)の計略に従い、雲夢に遊びに出かける体を装って、韓信(かんしん)をおびき出して捕縛した故事を指す」という。

司馬懿が出迎えに来たとき、そっと気色をうかがい、もし反気が見えたら即座に搦(から)め捕ってしまえばよかろう、という説に帰着したのだった。

(03)安邑

やがてこの行幸は実現をみる。布達により、司馬懿は西涼の兵馬数万を華やかに整え、曹叡の御車(みくるま)を迎えるべく出発した。すると誰からともなく騒ぎだす。

「司馬懿が10万の軍勢をひきいて、これへ押し寄せてくるぞ!」

近臣は動揺し、曹叡も色を失う。沿道の至るところ、恐々たる人心と、乱れ飛ぶ風説のるつぼとなってしまった。

何も知らない司馬懿は、数万の兵を従えて安邑へ入る。たちまち曹休(そうきゅう)の一軍が道を阻み、曹休自身も馬を進めて怒鳴った。

「聞け、仲達(ちゅうたつ。司馬懿のあざな)。汝(なんじ)は先帝(曹丕〈そうひ〉)より親しく、孤(みなしご)を託すぞとの遺詔を受けたひとりではないか。何とて謀反を企むぞ。ここより一歩でも入ってみよ。目にもの見せん!」

司馬懿は仰天し、それこそ蜀(しょく)の間諜(かんちょう)の計にすぎないと、声を大にして言い訳する。そして馬を下り、剣も捨て、数万の兵も城外へ残し、単身で曹休についていく。

司馬懿は御車の前に至るや、大地に拝伏し、その謂(い)われなきことを涙とともに弁解した。神妙な様子に曹叡は心を動かされたが、華歆や王朗などは容易に信じない。

司馬懿を控えさせておき、曹叡を中心に密議する。もとより華歆や王朗の言が、それを決定するのは言うまでもない。すなわちこう決まった。

「要するに、司馬懿に兵馬を持つ地位を与えたからいけないのだ。世間にいろいろな臆測が生じたり、このような不穏な問題が起こる原因にもなる」

「爪のない鷹(タカ)にして、野に放ってしまえばよい。これは漢の文帝(ぶんてい。劉恒〈りゅうこう〉)が周勃(しゅうぼつ)に報いた例しにある」

こうして司馬懿は勅命によって官職を剝がれ、その場から故郷へ帰される。彼の残した雍涼(ようりょう)の軍馬は、曹休が引き継ぐことになった。

(04)成都 丞相府

このことは、すぐに蜀の細作(さいさく。間者)から成都へ飛報された。諸葛亮は物事に対してあまり感情を表さない人だが、これを聞いたときは限りなく喜悦したということである。

彼は丞相府の屋敷に籠もり、幾日かの間、門を閉じ客を謝していた。魏の五路侵攻による国難の前にも、やはりここの門を閉じていたことがある。だが今度はその折のように、彼の姿を後園の池のほとりに見ることもなかった。

神思幾日、一夜、斎戒沐浴(もくよく)の後、燭(しょく)を掲げて劉禅に上す文を書く。後に有名な「前出師の表」は、実にこのときに成ったものである。

今や彼は北伐の断行を固く決意したもののようである。一句一章、心血を注いで書いた。華文彩句を苦吟するのではなく、いわゆる満腔(まんこう)の忠誠と国家百年の経策を述べんとするのである。表は長文だった。

おそらく筆を置くとともに、文字通り亡き玄徳(げんとく。劉備〈りゅうび〉のあざな)の遺託に対し、瞑目(めいもく)やや久しゅうしたであろう。

そして、さらにその誓いを新たにしたであろう。このとき彼は47歳。蜀の建興(けんこう)5(227)年にあたっていた。

(05)成都

諸葛亮は丞相府の門を出る。久しぶりに籠居を離れて朝(ちょう)へ上ると、ただちに闕下(けっか。ここでは御前の意)に伏して、「出師の表」を奉った。

劉禅は表を見て、心から言う。

「相父(しょうほ。諸葛亮に対する敬称)――。相父が南方を平定して帰られてから、わずか1年余りしか経っていない。さるを今また、前にも勝る軍事に赴くのは、いかに何でも体に無理ではないか? 相父も50になろうとする年齢。国のために、少しは閑を楽しみ、身を養ってくれよ」

諸葛亮は感泣しながらも、ただただ劉禅を慰め、ひとまず退がった。

ところが、ひとり劉禅の憂いにとどまらず、「出師の表」によって掲げられた北伐の断行は、俄然(がぜん)、蜀の廟堂(びょうどう。朝廷)に大きな不安を抱かせる。

丞相の諸葛亮の決意に出るものなので、明らかに反対を唱える者はなかったが、消極論は、劉禅を巡ってかなり顕著だった。それらの人々の第一に懸念するところは、兵員の不足であり、戦争遂行に要する財源の捻出。

蜀中の戸籍簿によって、魏呉(ぎご)両国の戸数と比較してみると、蜀は魏の3分の1、呉の2分の1しかないのである。

さらに人口密度から見れば、魏の5分の1強、呉の3分の1ぐらいの人間しか住んでいない。もって蜀の開発と地勢とが、いかに守るにはよいが、文化には遅れがちであるかわかる。

しかも常備の帯甲将士の数に至っては、魏や呉など中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)を擁する両国とは比ぶべくもない貧弱さ。

加うるに、劉禅は登位以来すでに4年。21歳にもなっているが、必ずしも名君とは言われないものがあった。父の劉備のような大才はなかったし、何より艱難(かんなん)を知らずに育てられてきている。

人々はみな諸葛亮に服してはいたが、その真意をなお深く知りたいと思うのだった。

(06)成都 丞相府

一夜親しく訪ね、蜀臣全体の不安を代表するかのように、それとなく諫めに来た太史(たいし)の譙周(しょうしゅう)に対し、諸葛亮の諭言は懇切を極めた。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、譙周は劉禅の御前で諸葛亮の出征を諫めている。

「今です。今をおいて、魏を討つときはないのです。もともと魏は天富の地に恵まれ、肥沃にして人馬強く、曹操(そうそう)以来ここに三代、ようやく大国家の態を整えてきました。これを早く討たなければ、とうてい彼を覆すことは不可能であるばかりでなく、わが蜀は自滅するほかありません」

このようにまず天の時を説き、自国の備えを語る。

「なるほど、わが蜀はまだ弱小です。天下13州のうち、完全に蜀の領有している地は益州(えきしゅう)1州しかないのですから、面積の上では魏や呉とは比較にならない。したがって兵員も不足。軍需や資材も彼の比でないことは是非もない。けれど、乞う安んぜよ。多少の成算はある」

諸葛亮は簿を取り寄せ、これまで誰にも打ち明けなかった、秘密の予備軍があることを初めて明らかにした。

それは荊州(けいしゅう)以来、禄を送り、領外の随所に養っておいた浪人部隊と、南方そのほかの異境から集め、趙雲(ちょううん)や馬忠(ばちゅう)などに、ここ1年調練させていた外人部隊。

それらの兵員を五部に編制し、連弩隊(れんどたい)・爆雷隊・飛槍隊(ひそうたい)・天馬隊・土木隊などの機動作戦に充てしむべく、十分に訓練を施してある。ゆえに、これは敵側にとって予想外なものとなり、作戦を狂わせるに至るだろうと説明した。

また財力については、その間の苦心をしみじみと述懐。

「北伐の大望は、決して今日の思いつきではなく、不肖が先帝(劉備)のご遺託を受けたときからの計画である」

「私は、その根本の力は、何より農にあるとなし、大司農(だいしのう)や督農(とくのう)の官制を置き、農産振興に尽くしてきた結果、連年の軍役にもかかわらず、まだ蜀中の農には十分な余力がある」

「かつ田賦(でんぷ)や戸税のほかに、数年前から塩と鉄とを国営にした。わが蜀の天産の塩と鉄とは、実に天恵の物と言ってよい。こうした国家経済の安定により、蜀は中原に進む日の資源を得ている」

こういう苦心や用意とつぶさな説明を聞いては、諫めに来た譙周もふた言なく帰るほかない。そのため蜀の朝廷の不安も反対も声なきに至ったのみか、かえって楽観に傾きすぎる空気さえ漂ってきた。

(07)成都

三軍の整備は成る。この間、蜀宮の内部にこそ、多少複雑な経過はあったが、国外に対しては、ほとんど何の情報も漏れなかったほど、それは密かに迅速に行われた。(蜀の建興5〈227〉年の)春3月の丙寅(ひのえとら)の日、いよいよ発向と令せられた。

井波『三国志演義(6)』の訳者注によると、「(蜀の)建興5(227)年3月に丙寅の日はない。4月1日が丙寅にあたる」という。

諸葛亮は朝に上り、劉禅に別れを告げる。だが、彼のただひとつの心配は、自身の向かう征途にはなく、後に残す劉禅の補佐と内治だけであった。

そのためここ旬日の間に、大英断をもって人事の異動を行う。郭攸之(かくゆうし)・董允(とういん)・費禕(ひい)の三重臣を侍中(じちゅう)とし、彼らに宮中のすべての治を付与した。

また、御林軍(ぎょりんぐん。近衛軍)の司には向寵(しょうちょう)を近衛大将(このえたいしょう)とし、留守の守りをくれぐれも託す。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、蔣琬(しょうえん)を参軍(さんぐん)に任じたともある。

さらに自分に代わるべき丞相府の仕事は、一切を張裔(ちょうえい)に行わしめ、彼を長史(ちょうし)に任じた。

杜瓊(とけい)を諫議大夫(かんぎたいふ)に、杜微(とび)と楊洪(ようこう)を尚書(しょうしょ)に、孟光(もうこう)と来敏(らいびん)を祭酒(さいしゅ)に、尹黙(いんもく)と李譔(りせん)を博士(はくし)に、譙周を太史に、それぞれ起用。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、「尹黙と李譔を博士に……」に続き、「郤正(げきせい)と費詩(ひし)を秘書(ひしょ)に」というくだりが挟まれていた。吉川『三国志』では郤正を使っていない。費詩は先の第204話(03)で既出。

そのほか彼の眼鏡で用いるに足り、頼むに足るほどな者は文武両面の機構に配置し、留守の万全は十分に期してある。

いま諸葛亮が劉禅の周囲の者を見回したのは、その静かな眸(ひとみ)をもって、補佐の人々へ、「くれぐれも頼みまいらすぞ」と心から言い、別辞に代えたものだった。

そしていよいよ成都を発つ日となると、劉禅は宮門を出て、街門の外まで見送る。

(08)蜀の北伐軍の編制

春風は三軍の旗を吹く。丞相府の前に勢ぞろいして、鉄甲燦々(さんさん)と流れゆく兵馬の編制を見ると、次のような順列だった。

前督部(ぜんとくぶ)・鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)・領丞相司馬(りょうじょうしょうしば)の魏延(ぎえん)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、前督部に鎮北将軍・領丞相司馬・涼州刺史(りょうしゅうしし)・都亭侯(とていこう)の魏延とある。

前軍都督(ぜんぐんととく)・領扶風太守(りょうふふうたいしゅ)の張翼(ちょうよく)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、前軍都督に領扶風太守の張翼とある。

牙門将(がもんしょう)・裨将軍(ひしょうぐん)の王平(おうへい)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、牙門将に裨将軍の王平とある。

後軍領兵使(こうぐんりょうへいし)の呂義(りょぎ)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、後軍領兵使に安漢将軍(あんかんしょうぐん)・領建寧太守(りょうけんねいたいしゅ)の李恢(りかい)とあり、その(李恢の)副将に定遠将軍(ていえんしょうぐん)・領漢中太守(りょうかんちゅうたいしゅ)の呂義ともあった。

兼管運糧(けんかんうんりょう)・左軍領兵使(さぐんりょうへいし)の馬岱(ばたい)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、兼管運糧・左軍領兵使に平北将軍(へいほくしょうぐん)・陳倉侯(ちんそうこう)の馬岱とある。

副将(ふくしょう)・飛衛将軍(ひえいしょうぐん)の廖化(りょうか)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、その(馬岱の)副将に飛衛将軍の廖化とある。

右軍領兵使(ゆうぐんりょうへいし)・奮威将軍(ふんいしょうぐん)の馬忠。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、右軍領兵使に奮威将軍・博陽亭侯(はくようていこう)の馬忠とある。

撫戎将軍(ぶじゅうしょうぐん)・関内侯(かんだいこう)の張嶷(ちょうぎ)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、撫戎将軍に関内侯の張嶷とある。

行中軍師(こうちゅうぐんし)・車騎大将軍(しゃきだいしょうぐん)の劉琰(りゅうえん)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行中軍師に車騎大将軍・都郷侯(ときょうこう)の劉琰とある。

中監軍(ちゅうかんぐん)・揚武将軍(ようぶしょうぐん)の鄧芝(とうし)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、中監軍に揚武将軍の鄧芝とある。

中参軍(ちゅうさんぐん)・安遠将軍(あんえんしょうぐん)の馬謖。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、中参軍に安遠将軍の馬謖とある。

前将軍(ぜんしょうぐん)・都亭侯の袁綝(えんりん)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、前将軍に都亭侯の袁綝とある。

左将軍(さしょうぐん)・高陽侯(こうようこう)の呉懿(ごい)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、左将軍に高陽侯の呉懿とある。呉懿は正史『三国志』では呉壱(ごいつ)。これは(西晋〈せいしん〉の宣帝〈せんてい〉である)司馬懿(しばい)の諱(いみな)を避けているため。

右将軍(ゆうしょうぐん)・玄都侯(げんとこう)の高翔(こうしょう)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、右将軍に玄都侯の高翔とある。

後将軍(こうしょうぐん)・安楽侯(あんらくこう)の呉班(ごはん)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、後将軍に安楽侯の呉班とある。

領長史(りょうちょうし)・綏軍将軍(すいぐんしょうぐん)の楊儀(ようぎ)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、領長史に綏軍将軍の楊儀とある。

前将軍・征南将軍(せいなんしょうぐん)の劉巴(りゅうは)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、前将軍に征南将軍の劉巴とある。

前護軍(ぜんごぐん)・偏将軍(へんしょうぐん)の許允(きょいん)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、前護軍に偏将軍・漢城亭侯(かんじょうていこう)の許允とある。

左護軍(さごぐん)・篤信中郎将(とくしんちゅうろうしょう)の丁咸(ていかん)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、左護軍に篤信中郎将の丁咸とある。

右護軍(ゆうごぐん)・偏将軍の劉敏(りゅうびん)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、右護軍に偏将軍の劉敏とある。

後護軍(こうごぐん)・典軍中郎将(てんぐんちゅうろうしょう)の官雝(かんよう)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、後護軍に典軍中郎将の官雝とある。

また、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・李厳伝〈りげんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)には(官雝でなく)上官雝(じょうかんよう)とある。

行参軍(こうさんぐん)・昭武中郎将(しょうぶちゅうろうしょう)の胡済(こさい)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行参軍に昭武中郎将の胡済とある。

行参軍・諫議将軍(かんぎしょうぐん)の閻晏(えんあん)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行参軍に諫議将軍の閻晏とある。なお閻晏に続き、同じく行参軍として偏将軍の爨習(さんしゅう)の名が見えるが、吉川『三国志』では爨習を使っていない。

行参軍・裨将軍の杜義(とぎ)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行参軍に裨将軍の杜義とある。

武略中郎将(ぶりゃくちゅうろうしょう)の杜祺(とき)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行参軍に武略中郎将の杜祺とある。

綏戎都尉(すいじゅうとい)の盛勃(せいぼつ)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行参軍に綏戎都尉の盛勃とある。

従事(じゅうじ)・武略中郎将(ぶりゃくちゅうろうしょう)の樊岐(はんき)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、従事に武略中郎将の樊岐とある。

典軍書記(てんぐんしょき)の樊建(はんけん)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、典軍書記に樊建とある。

丞相令史(じょうしょうれいし)の董厥(とうけつ)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、丞相令史に董厥とある。

帳前左護衛使(ちょうぜんさごえいし)・龍驤将軍(りゅうじょうしょうぐん)の関興(かんこう)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、帳前左護衛使に龍驤将軍の関興とある。

右護衛使(ゆうごえいし)・虎翼将軍(こよくしょうぐん)の張苞(ちょうほう)。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、右護衛使に虎翼将軍の張苞とある。

ここまで書かれていた通りに官爵を拾ってみた。井波『三国志演義(6)』(第91回)の記述に比べると、吉川『三国志』の記述はわかりにくいと思う。前将軍・征南将軍の劉巴などはその一例で、これでは前将軍と征南将軍を兼ねているように見え、違和感がある。ほかにも前将軍として袁綝と劉巴がカブるなど、吉川『三国志』と『三国志演義』とも、このあたりはテキトーに書かれている印象を受けた。

この中にひとり、なくてはならない大将が漏れていた。それは劉備以来の功臣の趙雲である。

この日、趙雲の英姿が出征軍の中に見えなかったのは、こういう理由に基づく。長坂橋(ちょうはんきょう)以来の英傑も、ようやく今は老い、鬢髪(びんぱつ)も白くなっていた。

諸葛亮は、南征の際にも、趙雲がその老骨を引っ提げて、終始よく戦ってきたことなども思い合わせ、わざと今度は編制から除き、留守に残そうとしたのだった。

ところが趙雲は、その情けをかえって喜ばないのみか、編制の発表を見るや否や丞相府へやってきて、諸葛亮に膝詰めで談じつけたのである。

「どうしてそれがしの名がこの中にないのか。怪しからん!」

これには諸葛亮も辟易(へきえき)した。強いて止めるなら、ただいまこの場において、自ら首を刎(は)ねて滅ぶべし、とも言うのである。

そこで、副将に中監軍の鄧芝を伴うことを条件として従軍を許す。趙雲と鄧芝に精兵5千を授け、別に戦将10人を付与して前部大先鋒軍となし、大軍の発つ1日先に、成都を出発させていたものだった。

上のような事情だったのなら、丞相府の前に勢ぞろいした中に、(先発したはずの)鄧芝の名もあるのはおかしいと思うが……。

(09)成都

何にしても、このような大規模な軍隊が国外へ発つのは成都初めてのこと。この日、市民は業を休んで歓送する。街門までの予定で見送りに出た劉禅も、名残を惜しみ、百官とともに北門の外10里まで見送った。

(10)洛陽

魏は不意に大きな衝撃を受けた。蜀の出師(出兵)は国を傾けてくるの概ありと知ったからである。

曹叡は迎撃に立つ将を募るが、満堂の魏臣はしばし声もない。このときひとり、願わくは臣これに当たらん、と進んで立った者があった。

安西鎮東将軍(あんぜいちんとうしょうぐん)兼尚書(けんしょうしょ)・駙馬都尉(ふばとい)の夏侯楙(かこうも)、あざなは子休(しきゅう)。夏侯淵(かこうえん)の息子である。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(駙馬都尉の)俸禄は比二千石(せき)。三国時代は皇女の夫のほか、外戚や宗室も就任した」という。

なお、史実の夏侯楙は夏侯淵の息子ではなく、夏侯惇(かこうとん。吉川『三国志』では「かこうじゅん」と読む)の次男である。

安西鎮東将軍というのも微妙だ。前後将軍みたいでおかしな官名。

夏侯楙の父の夏侯淵は曹操の功臣で、漢中の戦に亡くなった。いま蜀軍の指してくるところも漢中である。

恨みあるその戦場において、父の魂魄(こんぱく)を慰め、国に報ずるは子の務めなり、と言うのだった。

父亡き後の幼少のころ、夏侯楙は叔父の夏侯惇に育てられた。後に曹操がそれを哀れみ、自分の娘を娶(めあわ)せたので、諸人の尊重を受けてきた。

ここは叔父ではなく伯父とすべき。ちなみに史実では、夏侯惇は夏侯淵の族兄(いとこ。一族の同世代の年長者)とある。ただ上で述べたように、そもそも夏侯楙は夏侯惇の甥ではなく息子なのだが……。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、(ここでいう曹操の)娘が清河公主(せいかこうしゅ)であることが書かれていた。なお、清河公主が夏侯楙に嫁いだことは史実にも見えている。彼女は曹操と劉夫人との間に生まれた娘で、曹昂(そうこう)の同母姉妹にあたる。

だが、ようやく人となりが現れてくるにつれて天性やや軽躁(けいそう)。加えて慳吝(けち)な質(たち)も見えてきたので、魏軍のうちでもあまり声望はなかった。

しかしその位置、その重職に不足ない大将軍たる資格はあるので、衆議異論なく、曹叡も志を壮なりとし、関西(かんぜい。函谷関〈かんこくかん〉以西の地域)の軍馬20万を授け、もって諸葛亮を粉砕すべしと印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を許した。

管理人「かぶらがわ」より

本当に諸葛亮の策によっては、蜀が旧都の洛陽へ帰ることが可能だったのでしょうか? それでも劉備から受け継いだ流れとして、蜀が地方政権のままでいることは許されない。そもそも劉備が無茶ぶりをしたのですよね……。

ただ、とにかく劉備が諸葛亮を迎えていなければ、蜀に国を建てることはできなかったでしょう。諸葛亮が忠義の人だった、という見方にも異議なしです。

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