諸葛亮(しょかつりょう)は、魏(ぎ)の要職を占めるまでになった司馬懿(しばい)を警戒していた。
その司馬懿が曹叡(そうえい)に免官され、故郷へ帰されたと聞くや、諸葛亮は劉禅(りゅうぜん)に「出師(すいし)の表」を奉呈。宿願の北伐を断行し、自ら大軍をひきいて成都(せいと)を発つ。
第278話の展開とポイント
(01)成都 丞相府(じょうしょうふ)
馬謖(ばしょく)は、魏における司馬懿の立場を自己分析してみせたうえ、諸葛亮に一計を献ずる。
「司馬懿は自ら封を乞うて西涼州(せいりょうしゅう)へ着任しました。明らかに彼の心には、魏の中央から身を避けたいものがあるのでしょう。当然、魏の重臣どもはその行動を気味悪く思い、狐疑していることも確かです」
「そこで、司馬懿に謀反の兆しありと、世上へ流布させ、かつ偽りの回文を諸国へ放てば、魏の中央はたちまち惑い、司馬懿を殺すか、官職を褫奪(ちだつ。奪うこと)して辺境へ追うかするに相違ありません」
馬謖の説くところはよく諸葛亮の思慮とも一致した。諸葛亮は彼の献言を容れ、密かにこの策を行う。いわゆる対敵国内流言策である。旅行者を用い、隠密を用い、あるいは縁故の家から家へ、女子から女子へなど、あらゆる細胞が利用された。
一方で偽の檄文(げきぶん)を作り、諸州の武門へ発送。案のごとく、司馬懿に対して、世間にいろいろな陰口が立ってくる。
(02)洛陽(らくよう)
そのようなところへ、檄文の一通が、洛陽や鄴城(ぎょうじょう)の門を守る吏員の手に入り、ただちに魏の宮中へ上達された。
★原文には「洛陽鄴城の門を守る」とあったが、これだと意味が通じにくいと思う。一応「や」を挟んで「洛陽や鄴城」としてみたが、ここはどう解釈すべきかわからなかった。
檄文は過激な辞句で埋まっている。魏三代にわたる罪状を数え、天下の不平の徒へ向かって、打倒魏朝を扇動したものだった。
曹叡は、これが司馬懿の檄文なのかと判断に迷う。華歆(かきん)や王朗(おうろう)は、司馬懿が本性を現したものだと言ったが、なお曹叡は決めかねていた。
そのうち曹真(そうしん)が、穏当な反対意見を述べる。
「まさかそのようなこともあるまい。もし軽々しく征伐などして、それが真実でなかったら、求めて君臣の間に擾乱(じょうらん)を醸すものではないか?」
結局、漢(かん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)が雲夢(うんぼう)に行幸した故知に倣い、曹叡自ら安邑(あんゆう)へ遊ぶことになる。
★『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注によると、「高祖が謀将陳平(ちんぺい)の計略に従い、雲夢に遊びに出かける体を装って、韓信(かんしん)をおびき出して捕縛した故事を指す」という。
司馬懿が出迎えに来たとき、そっと気色をうかがい、もし反気が見えたら即座に搦(から)め捕ってしまえばよかろう、という説に帰着したのだった。
(03)安邑
やがてこの行幸は実現をみる。布達により、司馬懿は西涼の兵馬数万を華やかに整え、曹叡の御車(みくるま)を迎えるべく出発した。すると誰からともなく騒ぎだす。
「司馬懿が10万の軍勢をひきいて、これへ押し寄せてくるぞ!」
近臣は動揺し、曹叡も色を失う。沿道の至るところ、恐々たる人心と、乱れ飛ぶ風説のるつぼとなってしまった。
何も知らない司馬懿は、数万の兵を従えて安邑へ入る。たちまち曹休(そうきゅう)の一軍が道を阻み、曹休自身も馬を進めて怒鳴った。
「聞け、仲達(ちゅうたつ。司馬懿のあざな)。汝(なんじ)は先帝(曹丕〈そうひ〉)より親しく、孤(みなしご)を託すぞとの遺詔を受けたひとりではないか。何とて謀反を企むぞ。ここより一歩でも入ってみよ。目にもの見せん!」
司馬懿は仰天し、それこそ蜀(しょく)の間諜(かんちょう)の計にすぎないと、声を大にして言い訳する。そして馬を下り、剣も捨て、数万の兵も城外へ残し、単身で曹休についていく。
司馬懿は御車の前に至るや、大地に拝伏し、その謂(い)われなきことを涙とともに弁解した。神妙な様子に曹叡は心を動かされたが、華歆や王朗などは容易に信じない。
司馬懿を控えさせておき、曹叡を中心に密議する。もとより華歆や王朗の言が、それを決定するのは言うまでもない。すなわちこう決まった。
「要するに、司馬懿に兵馬を持つ地位を与えたからいけないのだ。世間にいろいろな臆測が生じたり、このような不穏な問題が起こる原因にもなる」
「爪のない鷹(タカ)にして、野に放ってしまえばよい。これは漢の文帝(ぶんてい。劉恒〈りゅうこう〉)が周勃(しゅうぼつ)に報いた例しにある」
こうして司馬懿は勅命によって官職を剝がれ、その場から故郷へ帰される。彼の残した雍涼(ようりょう)の軍馬は、曹休が引き継ぐことになった。
(04)成都 丞相府
このことは、すぐに蜀の細作(さいさく。間者)から成都へ飛報された。諸葛亮は物事に対してあまり感情を表さない人だが、これを聞いたときは限りなく喜悦したということである。
彼は丞相府の屋敷に籠もり、幾日かの間、門を閉じ客を謝していた。魏の五路侵攻による国難の前にも、やはりここの門を閉じていたことがある。だが今度はその折のように、彼の姿を後園の池のほとりに見ることもなかった。
神思幾日、一夜、斎戒沐浴(もくよく)の後、燭(しょく)を掲げて劉禅に上す文を書く。後に有名な「前出師の表」は、実にこのときに成ったものである。
今や彼は北伐の断行を固く決意したもののようである。一句一章、心血を注いで書いた。華文彩句を苦吟するのではなく、いわゆる満腔(まんこう)の忠誠と国家百年の経策を述べんとするのである。表は長文だった。
おそらく筆を置くとともに、文字通り亡き玄徳(げんとく。劉備〈りゅうび〉のあざな)の遺託に対し、瞑目(めいもく)やや久しゅうしたであろう。
そして、さらにその誓いを新たにしたであろう。このとき彼は47歳。蜀の建興(けんこう)5(227)年にあたっていた。
(05)成都
諸葛亮は丞相府の門を出る。久しぶりに籠居を離れて朝(ちょう)へ上ると、ただちに闕下(けっか。ここでは御前の意)に伏して、「出師の表」を奉った。
劉禅は表を見て、心から言う。
「相父(しょうほ。諸葛亮に対する敬称)――。相父が南方を平定して帰られてから、わずか1年余りしか経っていない。さるを今また、前にも勝る軍事に赴くのは、いかに何でも体に無理ではないか? 相父も50になろうとする年齢。国のために、少しは閑を楽しみ、身を養ってくれよ」
諸葛亮は感泣しながらも、ただただ劉禅を慰め、ひとまず退がった。
ところが、ひとり劉禅の憂いにとどまらず、「出師の表」によって掲げられた北伐の断行は、俄然(がぜん)、蜀の廟堂(びょうどう。朝廷)に大きな不安を抱かせる。
丞相の諸葛亮の決意に出るものなので、明らかに反対を唱える者はなかったが、消極論は、劉禅を巡ってかなり顕著だった。それらの人々の第一に懸念するところは、兵員の不足であり、戦争遂行に要する財源の捻出。
蜀中の戸籍簿によって、魏呉(ぎご)両国の戸数と比較してみると、蜀は魏の3分の1、呉の2分の1しかないのである。
さらに人口密度から見れば、魏の5分の1強、呉の3分の1ぐらいの人間しか住んでいない。もって蜀の開発と地勢とが、いかに守るにはよいが、文化には遅れがちであるかわかる。
しかも常備の帯甲将士の数に至っては、魏や呉など中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)を擁する両国とは比ぶべくもない貧弱さ。
加うるに、劉禅は登位以来すでに4年。21歳にもなっているが、必ずしも名君とは言われないものがあった。父の劉備のような大才はなかったし、何より艱難(かんなん)を知らずに育てられてきている。
人々はみな諸葛亮に服してはいたが、その真意をなお深く知りたいと思うのだった。
(06)成都 丞相府
一夜親しく訪ね、蜀臣全体の不安を代表するかのように、それとなく諫めに来た太史(たいし)の譙周(しょうしゅう)に対し、諸葛亮の諭言は懇切を極めた。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、譙周は劉禅の御前で諸葛亮の出征を諫めている。
「今です。今をおいて、魏を討つときはないのです。もともと魏は天富の地に恵まれ、肥沃にして人馬強く、曹操(そうそう)以来ここに三代、ようやく大国家の態を整えてきました。これを早く討たなければ、とうてい彼を覆すことは不可能であるばかりでなく、わが蜀は自滅するほかありません」
このようにまず天の時を説き、自国の備えを語る。
「なるほど、わが蜀はまだ弱小です。天下13州のうち、完全に蜀の領有している地は益州(えきしゅう)1州しかないのですから、面積の上では魏や呉とは比較にならない。したがって兵員も不足。軍需や資材も彼の比でないことは是非もない。けれど、乞う安んぜよ。多少の成算はある」
諸葛亮は簿を取り寄せ、これまで誰にも打ち明けなかった、秘密の予備軍があることを初めて明らかにした。
それは荊州(けいしゅう)以来、禄を送り、領外の随所に養っておいた浪人部隊と、南方そのほかの異境から集め、趙雲(ちょううん)や馬忠(ばちゅう)などに、ここ1年調練させていた外人部隊。
それらの兵員を五部に編制し、連弩隊(れんどたい)・爆雷隊・飛槍隊(ひそうたい)・天馬隊・土木隊などの機動作戦に充てしむべく、十分に訓練を施してある。ゆえに、これは敵側にとって予想外なものとなり、作戦を狂わせるに至るだろうと説明した。
また財力については、その間の苦心をしみじみと述懐。
「北伐の大望は、決して今日の思いつきではなく、不肖が先帝(劉備)のご遺託を受けたときからの計画である」
「私は、その根本の力は、何より農にあるとなし、大司農(だいしのう)や督農(とくのう)の官制を置き、農産振興に尽くしてきた結果、連年の軍役にもかかわらず、まだ蜀中の農には十分な余力がある」
「かつ田賦(でんぷ)や戸税のほかに、数年前から塩と鉄とを国営にした。わが蜀の天産の塩と鉄とは、実に天恵の物と言ってよい。こうした国家経済の安定により、蜀は中原に進む日の資源を得ている」
こういう苦心や用意とつぶさな説明を聞いては、諫めに来た譙周もふた言なく帰るほかない。そのため蜀の朝廷の不安も反対も声なきに至ったのみか、かえって楽観に傾きすぎる空気さえ漂ってきた。
(07)成都
三軍の整備は成る。この間、蜀宮の内部にこそ、多少複雑な経過はあったが、国外に対しては、ほとんど何の情報も漏れなかったほど、それは密かに迅速に行われた。(蜀の建興5〈227〉年の)春3月の丙寅(ひのえとら)の日、いよいよ発向と令せられた。
★井波『三国志演義(6)』の訳者注によると、「(蜀の)建興5(227)年3月に丙寅の日はない。4月1日が丙寅にあたる」という。
諸葛亮は朝に上り、劉禅に別れを告げる。だが、彼のただひとつの心配は、自身の向かう征途にはなく、後に残す劉禅の補佐と内治だけであった。
そのためここ旬日の間に、大英断をもって人事の異動を行う。郭攸之(かくゆうし)・董允(とういん)・費禕(ひい)の三重臣を侍中(じちゅう)とし、彼らに宮中のすべての治を付与した。
また、御林軍(ぎょりんぐん。近衛軍)の司には向寵(しょうちょう)を近衛大将(このえたいしょう)とし、留守の守りをくれぐれも託す。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、蔣琬(しょうえん)を参軍(さんぐん)に任じたともある。
さらに自分に代わるべき丞相府の仕事は、一切を張裔(ちょうえい)に行わしめ、彼を長史(ちょうし)に任じた。
杜瓊(とけい)を諫議大夫(かんぎたいふ)に、杜微(とび)と楊洪(ようこう)を尚書(しょうしょ)に、孟光(もうこう)と来敏(らいびん)を祭酒(さいしゅ)に、尹黙(いんもく)と李譔(りせん)を博士(はくし)に、譙周を太史に、それぞれ起用。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、「尹黙と李譔を博士に……」に続き、「郤正(げきせい)と費詩(ひし)を秘書(ひしょ)に」というくだりが挟まれていた。吉川『三国志』では郤正を使っていない。費詩は先の第204話(03)で既出。
そのほか彼の眼鏡で用いるに足り、頼むに足るほどな者は文武両面の機構に配置し、留守の万全は十分に期してある。
いま諸葛亮が劉禅の周囲の者を見回したのは、その静かな眸(ひとみ)をもって、補佐の人々へ、「くれぐれも頼みまいらすぞ」と心から言い、別辞に代えたものだった。
そしていよいよ成都を発つ日となると、劉禅は宮門を出て、街門の外まで見送る。
(08)蜀の北伐軍の編制
春風は三軍の旗を吹く。丞相府の前に勢ぞろいして、鉄甲燦々(さんさん)と流れゆく兵馬の編制を見ると、次のような順列だった。
前督部(ぜんとくぶ)・鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)・領丞相司馬(りょうじょうしょうしば)の魏延(ぎえん)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、前督部に鎮北将軍・領丞相司馬・涼州刺史(りょうしゅうしし)・都亭侯(とていこう)の魏延とある。
前軍都督(ぜんぐんととく)・領扶風太守(りょうふふうたいしゅ)の張翼(ちょうよく)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、前軍都督に領扶風太守の張翼とある。
牙門将(がもんしょう)・裨将軍(ひしょうぐん)の王平(おうへい)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、牙門将に裨将軍の王平とある。
後軍領兵使(こうぐんりょうへいし)の呂義(りょぎ)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、後軍領兵使に安漢将軍(あんかんしょうぐん)・領建寧太守(りょうけんねいたいしゅ)の李恢(りかい)とあり、その(李恢の)副将に定遠将軍(ていえんしょうぐん)・領漢中太守(りょうかんちゅうたいしゅ)の呂義ともあった。
兼管運糧(けんかんうんりょう)・左軍領兵使(さぐんりょうへいし)の馬岱(ばたい)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、兼管運糧・左軍領兵使に平北将軍(へいほくしょうぐん)・陳倉侯(ちんそうこう)の馬岱とある。
副将(ふくしょう)・飛衛将軍(ひえいしょうぐん)の廖化(りょうか)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、その(馬岱の)副将に飛衛将軍の廖化とある。
右軍領兵使(ゆうぐんりょうへいし)・奮威将軍(ふんいしょうぐん)の馬忠。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、右軍領兵使に奮威将軍・博陽亭侯(はくようていこう)の馬忠とある。
撫戎将軍(ぶじゅうしょうぐん)・関内侯(かんだいこう)の張嶷(ちょうぎ)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、撫戎将軍に関内侯の張嶷とある。
行中軍師(こうちゅうぐんし)・車騎大将軍(しゃきだいしょうぐん)の劉琰(りゅうえん)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行中軍師に車騎大将軍・都郷侯(ときょうこう)の劉琰とある。
中監軍(ちゅうかんぐん)・揚武将軍(ようぶしょうぐん)の鄧芝(とうし)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、中監軍に揚武将軍の鄧芝とある。
中参軍(ちゅうさんぐん)・安遠将軍(あんえんしょうぐん)の馬謖。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、中参軍に安遠将軍の馬謖とある。
前将軍(ぜんしょうぐん)・都亭侯の袁綝(えんりん)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、前将軍に都亭侯の袁綝とある。
左将軍(さしょうぐん)・高陽侯(こうようこう)の呉懿(ごい)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、左将軍に高陽侯の呉懿とある。呉懿は正史『三国志』では呉壱(ごいつ)。これは(西晋〈せいしん〉の宣帝〈せんてい〉である)司馬懿(しばい)の諱(いみな)を避けているため。
右将軍(ゆうしょうぐん)・玄都侯(げんとこう)の高翔(こうしょう)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、右将軍に玄都侯の高翔とある。
後将軍(こうしょうぐん)・安楽侯(あんらくこう)の呉班(ごはん)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、後将軍に安楽侯の呉班とある。
領長史(りょうちょうし)・綏軍将軍(すいぐんしょうぐん)の楊儀(ようぎ)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、領長史に綏軍将軍の楊儀とある。
前将軍・征南将軍(せいなんしょうぐん)の劉巴(りゅうは)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、前将軍に征南将軍の劉巴とある。
前護軍(ぜんごぐん)・偏将軍(へんしょうぐん)の許允(きょいん)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、前護軍に偏将軍・漢城亭侯(かんじょうていこう)の許允とある。
左護軍(さごぐん)・篤信中郎将(とくしんちゅうろうしょう)の丁咸(ていかん)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、左護軍に篤信中郎将の丁咸とある。
右護軍(ゆうごぐん)・偏将軍の劉敏(りゅうびん)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、右護軍に偏将軍の劉敏とある。
後護軍(こうごぐん)・典軍中郎将(てんぐんちゅうろうしょう)の官雝(かんよう)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、後護軍に典軍中郎将の官雝とある。
★また、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・李厳伝〈りげんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)には(官雝でなく)上官雝(じょうかんよう)とある。
行参軍(こうさんぐん)・昭武中郎将(しょうぶちゅうろうしょう)の胡済(こさい)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行参軍に昭武中郎将の胡済とある。
行参軍・諫議将軍(かんぎしょうぐん)の閻晏(えんあん)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行参軍に諫議将軍の閻晏とある。なお閻晏に続き、同じく行参軍として偏将軍の爨習(さんしゅう)の名が見えるが、吉川『三国志』では爨習を使っていない。
行参軍・裨将軍の杜義(とぎ)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行参軍に裨将軍の杜義とある。
武略中郎将(ぶりゃくちゅうろうしょう)の杜祺(とき)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行参軍に武略中郎将の杜祺とある。
綏戎都尉(すいじゅうとい)の盛勃(せいぼつ)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、行参軍に綏戎都尉の盛勃とある。
従事(じゅうじ)・武略中郎将(ぶりゃくちゅうろうしょう)の樊岐(はんき)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、従事に武略中郎将の樊岐とある。
典軍書記(てんぐんしょき)の樊建(はんけん)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、典軍書記に樊建とある。
丞相令史(じょうしょうれいし)の董厥(とうけつ)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、丞相令史に董厥とある。
帳前左護衛使(ちょうぜんさごえいし)・龍驤将軍(りゅうじょうしょうぐん)の関興(かんこう)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、帳前左護衛使に龍驤将軍の関興とある。
右護衛使(ゆうごえいし)・虎翼将軍(こよくしょうぐん)の張苞(ちょうほう)。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、右護衛使に虎翼将軍の張苞とある。
★ここまで書かれていた通りに官爵を拾ってみた。井波『三国志演義(6)』(第91回)の記述に比べると、吉川『三国志』の記述はわかりにくいと思う。前将軍・征南将軍の劉巴などはその一例で、これでは前将軍と征南将軍を兼ねているように見え、違和感がある。ほかにも前将軍として袁綝と劉巴がカブるなど、吉川『三国志』と『三国志演義』とも、このあたりはテキトーに書かれている印象を受けた。
この中にひとり、なくてはならない大将が漏れていた。それは劉備以来の功臣の趙雲である。
この日、趙雲の英姿が出征軍の中に見えなかったのは、こういう理由に基づく。長坂橋(ちょうはんきょう)以来の英傑も、ようやく今は老い、鬢髪(びんぱつ)も白くなっていた。
諸葛亮は、南征の際にも、趙雲がその老骨を引っ提げて、終始よく戦ってきたことなども思い合わせ、わざと今度は編制から除き、留守に残そうとしたのだった。
ところが趙雲は、その情けをかえって喜ばないのみか、編制の発表を見るや否や丞相府へやってきて、諸葛亮に膝詰めで談じつけたのである。
「どうしてそれがしの名がこの中にないのか。怪しからん!」
これには諸葛亮も辟易(へきえき)した。強いて止めるなら、ただいまこの場において、自ら首を刎(は)ねて滅ぶべし、とも言うのである。
そこで、副将に中監軍の鄧芝を伴うことを条件として従軍を許す。趙雲と鄧芝に精兵5千を授け、別に戦将10人を付与して前部大先鋒軍となし、大軍の発つ1日先に、成都を出発させていたものだった。
★上のような事情だったのなら、丞相府の前に勢ぞろいした中に、(先発したはずの)鄧芝の名もあるのはおかしいと思うが……。
(09)成都
何にしても、このような大規模な軍隊が国外へ発つのは成都初めてのこと。この日、市民は業を休んで歓送する。街門までの予定で見送りに出た劉禅も、名残を惜しみ、百官とともに北門の外10里まで見送った。
(10)洛陽
魏は不意に大きな衝撃を受けた。蜀の出師(出兵)は国を傾けてくるの概ありと知ったからである。
曹叡は迎撃に立つ将を募るが、満堂の魏臣はしばし声もない。このときひとり、願わくは臣これに当たらん、と進んで立った者があった。
安西鎮東将軍(あんぜいちんとうしょうぐん)兼尚書(けんしょうしょ)・駙馬都尉(ふばとい)の夏侯楙(かこうも)、あざなは子休(しきゅう)。夏侯淵(かこうえん)の息子である。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(駙馬都尉の)俸禄は比二千石(せき)。三国時代は皇女の夫のほか、外戚や宗室も就任した」という。
★なお、史実の夏侯楙は夏侯淵の息子ではなく、夏侯惇(かこうとん。吉川『三国志』では「かこうじゅん」と読む)の次男である。
★安西鎮東将軍というのも微妙だ。前後将軍みたいでおかしな官名。
夏侯楙の父の夏侯淵は曹操の功臣で、漢中の戦に亡くなった。いま蜀軍の指してくるところも漢中である。
恨みあるその戦場において、父の魂魄(こんぱく)を慰め、国に報ずるは子の務めなり、と言うのだった。
父亡き後の幼少のころ、夏侯楙は叔父の夏侯惇に育てられた。後に曹操がそれを哀れみ、自分の娘を娶(めあわ)せたので、諸人の尊重を受けてきた。
★ここは叔父ではなく伯父とすべき。ちなみに史実では、夏侯惇は夏侯淵の族兄(いとこ。一族の同世代の年長者)とある。ただ上で述べたように、そもそも夏侯楙は夏侯惇の甥ではなく息子なのだが……。
★井波『三国志演義(6)』(第91回)では、(ここでいう曹操の)娘が清河公主(せいかこうしゅ)であることが書かれていた。なお、清河公主が夏侯楙に嫁いだことは史実にも見えている。彼女は曹操と劉夫人との間に生まれた娘で、曹昂(そうこう)の同母姉妹にあたる。
だが、ようやく人となりが現れてくるにつれて天性やや軽躁(けいそう)。加えて慳吝(けち)な質(たち)も見えてきたので、魏軍のうちでもあまり声望はなかった。
しかしその位置、その重職に不足ない大将軍たる資格はあるので、衆議異論なく、曹叡も志を壮なりとし、関西(かんぜい。函谷関〈かんこくかん〉以西の地域)の軍馬20万を授け、もって諸葛亮を粉砕すべしと印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を許した。
管理人「かぶらがわ」より
本当に諸葛亮の策によっては、蜀が旧都の洛陽へ帰ることが可能だったのでしょうか? それでも劉備から受け継いだ流れとして、蜀が地方政権のままでいることは許されない。そもそも劉備が無茶ぶりをしたのですよね……。
ただ、とにかく劉備が諸葛亮を迎えていなければ、蜀に国を建てることはできなかったでしょう。諸葛亮が忠義の人だった、という見方にも異議なしです。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
Yahoo!ショッピングで探す 楽天市場で探す Amazonで探す
記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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