濮陽(ぼくよう)を巡る曹操(そうそう)と呂布(りょふ)の戦いは続いていたが、そこへ思わぬ脅威が迫ってくる。イナゴの大群だった。
その後、曹操は羊山(ようざん)に拠る黄巾賊(こうきんぞく)の残党を攻めた際、典韋(てんい)と互角に渡り合う壮士を目にする。
第044話の展開とポイント
(01)濮陽
馬陵山(ばりょうざん)で曹操の偽葬儀の策に騙(だま)された後、呂布は濮陽城から出なくなる。曹操があらゆる策を巡らせて挑んでも、容易に出てこなかった。
そうしたある日、西の空からイナゴの大群が襲来する。悲痛な流民は食う物を追い、東西へ移り去った。
山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の国々ではイナゴの災厄のため物価が暴騰。米1斛(こく)が銭100貫を出してもなかなか手に入らなかった。
★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第12回)では、穀物の値段は1斛につき50貫に跳ね上がったとある。
曹操もこれには策もなく、手の下しようがない。陣を引き払いしばらく他州に潜み、衣食を節約して大飢饉(だいききん)をしのぎ、他日を待つほかないと観念した。
★井波『三国志演義(1)』(第12回)では、曹操は軍勢をひきいて鄄城(けんじょう)に戻ったとある。
呂布も曹操が包囲を解いて引き揚げた後、細く長く食うよう兵糧方に厳命。イナゴが人間の戦争を休止させてしまったのである。
★井波『三国志演義(1)』(第12回)では、呂布も軍勢をひきいて城(濮陽城)を出ると、山陽(さんよう)に駐屯し食糧を調達したとあった。
(02)徐州(じょしゅう)
徐州太守(じょしゅうたいしゅ)の陶謙(とうけん)は病床にあり、誰にこの国を譲って死ぬべきか日ごと考えていた。
彼はもう70歳になろうかという高齢で、このたびは重体でもあり自ら命数を感じている。
★井波『三国志演義(1)』(第12回)では、このとき(興平〈こうへい〉元〈194〉年)陶謙は63歳だったとあり史実とも合っている。
そばにいた糜竺(びじく。麋竺)は意中を察していたので、もう一度、劉備(りゅうび)を招き、懇ろに心中を訴えてみるよう勧めた。
小沛(しょうはい)にいた劉備は使いから事情を聞くと、取るものも取りあえず駆けつけて見舞う。
陶謙は手を握り、徐州太守の任を引き受けてほしいと頼んだが、依然として劉備は断り続ける。そのうちついに陶謙は息を引き取った。
★ここで陶謙にふたりの息子がいたことが語られていた。「出来の悪い不肖の実子」とだけある。なお井波『三国志演義(1)』(第12回)では、長男が徐商(じょしょう)、次男が徐応(じょおう)とあった。
(03)小沛
陶謙の葬儀が終わると劉備は小沛へ帰ったが、すぐに糜竺と陳登(ちんとう)らが皆を代表して訪ねてくる。ふたりは、太守(陶謙)の生前の御意だから、まげても領主としてお立ちいただきたいと、再三再四、懇請した。
★ここは原文「曲げても領主としてお立ちいただきたい」とあったが、「枉(ま)げても」の誤用か。字面はイマイチだが平仮名にしておく。
その翌日、小沛の役所の門外に領民が集まる。劉備が関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)を従えて出てみると、何百とも知れない領民が、太守になり仁政を布(し)いてほしいと声を合わせて訴えた。
飢餓の領民を見るに及んで、とうとう劉備も意を決する。こうして太守の牌印(はいいん。札と印)を受領し、小沛から徐州へ移った。
★『完訳 三国志』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、金田純一郎〈かねだ・じゅんいちろう〉訳 岩波文庫)の訳注によると、「欧陽修(おうようしゅう)の『五代史(ごだいし)』(巻63)『前蜀世家(ぜんしょくせいか)』に、節度(せつど)観察の牌と印を譲り渡した(節度使は、唐〈とう〉時代の軍司令官で地方行政の実権を握っていた)旨が見える」
「『通鑑(つがん)』(巻256)の中和(ちゅうわ)4年条の胡三省(こさんせい)の注によると、牌とは官印を箱から出した場合、その代わりに箱の中に入れておく札であるから、ある官印を預かる場合には当然、牌も一緒に預かることになる。これは唐の末(9世紀末)以後の制度であって、漢代(かんだい)には印だけであったろう」という。
(04)徐州
劉備は徐州牧(じょしゅうぼく)となると、まず先君の陶謙の霊位を祭り、黄河(こうが)の原で盛大な葬式を営む。続いて陶謙の徳行や遺業を朝廷に上表したうえ、糜竺・孫乾(そんけん)・陳登などの旧臣を登用し大いに善政を布いた。
★この第44話(03)で、すでに陶謙の葬儀が終わったような記述があったが――。ここで改めて盛大な葬儀を執り行ったということなのだろうか?
(05)兗州(えんしゅう)
曹操は劉備が徐州を領したと聞くと、ただちに軍備を命ずる。だが荀彧(じゅんいく)は、兗州の城(?)がまだ呂布に奪われたままだと言い、徐州も取れず、兗州も奪還できなくなる可能性に触れる。
★ここで荀彧が曹操に、「今いるこの地方は天下の要衝で、あなたにとっては大事な根拠地です。その兗州の城は呂布に奪われているではありませんか」と言っていた。
この第44話(01)で、曹操はイナゴの襲来に遭い、陣を引き払ってしばらく他州に潜むということになっていたはず……。ところが「今いるこの地方」というのも兗州を指しているようで、どうもよくわからなかった。
★なお井波『三国志演義(1)』(第12回)では、このとき曹操は鄄城にいた。
曹操は荀彧の献策を容れ、その年(興平元〈194〉年?)の12月に陳国(ちんこく)を攻め、汝南(じょなん)や潁川(えいせん)地方を席巻した。
★ここでは「その年の12月」とだけあってわかりにくい。おそらく興平元(194)年のことだと思われるが、吉川『三国志』では具体的に年号や西暦を用いて時期を示さない出来事も多く、時間的な経過が把握しづらい。
(06)羊山
黄巾の残党で何儀(かぎ)と黄邵(こうしょう。黄劭)というふたりの頭目が、羊山を中心として多年にわたり百姓の膏血(こうけつ。苦労して手に入れた収入)を絞っていた。
ふたりは曹操が攻め寄せたと聞くと、羊山のふもとに繰り出して待ち構えた。これを見た曹操は典韋に物見を言いつける。
すぐに戻ってきた典韋。10万ばかりの数がいるが、狐群狗党(こぐんくとう。狐〈キツネ〉や狗〈イヌ〉の集団。取るに足りないもの)の類いで規律も隊伍(たいご)もなっていないと報告。強弓を並べ、少し矢風を浴びせてもらえば、自分が機を計り右翼から駆け散らすと言う。
この戦の結果は彼の言葉通りになる。賊軍は無数の死骸を捨てて八方に逃げ散ったり、一団となって降伏して出るなど支離滅裂になった。曹操の周囲の猛将たちは羊山の上に立って笑った。
すると翌日、一隊の豹卒(ひょうそつ。豹のように猛々〈たけだけ〉しい兵士)をひきいた巨漢(おおおとこ)が陣頭にやってくる。巨漢は截天夜叉(せつてんやしゃ)の何曼(かまん)と名乗った。
曹操はおかしくなり、「誰か行ってやれ」と笑いながら下知する。李典(りてん)が行こうとするのを制して曹洪(そうこう)が進み出ると、わざと馬を下りて刀を引っ提げ、何曼に斬りつけた。
なかなか何曼は勇猛で曹洪も危うく見えたが、逃げると見せて急に膝をつき、後ろへ薙(な)ぎつけると、見事に胴斬りにして屠(ほふ)った。
その間に李典が駒を飛ばし、頭目の黄邵を馬上で生け捕る。もうひとりの頭目の何儀は2、300人の手下を連れ、葛陂(かつは)の堤を一目散に逃げていった。
(07)葛陂
そこへ突然、一方の山間から旗印も何も持たない変な軍隊がワッと出てくる。真っ先に立っていた壮士は道をふさいで何儀を馬から蹴落とし、いち早く縛り上げた。
何儀の手下は降参を誓い、壮士は手勢と降人を併せて引き揚げようとした。そこへ典韋が駆けつけ、何儀を引き渡すよう呼びかけたものの、壮士は聞き入れず、ふたりの間で一騎討ちが起こる。
その最中、なおも典韋は何儀を献ずるよう勧めたが、譙県(しょうけん)の許褚(きょちょ)と名乗った壮士は聞かない。しかも許褚は賊でも浪人でもなく、天下の農民だという。
ふたりの闘いは辰(たつ)の刻(午前8時ごろ)から午(うま)の刻(正午ごろ)まで及んだが、勝負がつかなかったのみか馬のほうが疲れてしまい、日没とともに引き分けた。
曹操は後から来てこの勝負を高地から眺めていたが、戻ってきた典韋に、明日は負けたふりをして逃げることにしろと言い含める。
翌日、典韋は30合も戟(げき)を合わせると、にわかに後ろを見せて逃げ出す。曹操もわざと軍勢を5里ほど退き、許褚の気を驕(おご)らせた。
さらにその翌日、またも典韋が陣頭に立つ。許褚が駒を飛ばしてくると、典韋は自分だけ真っ先に逃げ走る。許褚が1里も追いかけていくと、かねて曹操が掘らせておいた大きな落とし穴に、馬もろとも転げ込んでしまう。
罠にかかった許褚は、たちまち曹操の前に引きずられてきた。曹操は手荒に引きずってきた兵士たちを叱りつけると、自ら縄目を解いてやる。そして許褚の素性や経歴を聞くと、この日から臣下に加えた。
管理人「かぶらがわ」より
亡くなった陶謙から引き継ぐ形で徐州を統治することになった劉備。同時に糜竺・孫乾・陳登らも配下に加えました。
一方の曹操は典韋と好勝負を演じた許褚を獲得。劉備と曹操のもとに少しずつ人材が集まってきていますね。
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