陶謙(とうけん)亡き後、請われて徐州(じょしゅう)を統治することになった劉備(りゅうび)。
その徐州を頼り、曹操(そうそう)に敗れて各地をさまよった呂布(りょふ)がやってくる。受け入れに反対する声が上がる中、劉備の決断は――。
第045話の展開とポイント
(01)兗州(えんしゅう。昌邑〈しょうゆう〉?)
遠征を続けていた曹操は、近ごろ古巣の兗州に呂布配下の薛蘭(せつらん)と李封(りほう)が立て籠もっていると聞く。
また、その軍紀はすこぶる乱れ、兵士は城下で略奪や悪事ばかり働き、城中の将も苛税を絞り、自己の享楽ばかりに驕(おご)りふけっているという。
曹操は「今なら討てる」と直感し、軍勢を一転させ兗州を目指す。曹操軍が押し寄せると、薛蘭と李封は驚きあわてながらも駒をそろえて打って出る。
これに許褚(きょちょ)が挑み、李封を一気に斬ってしまう。ひるんだ薛蘭が逃げ出すと、曹操の陣後から呂虔(りょけん)が一矢を放ち、その首筋を射抜いた。曹操は兗州城(昌邑城?)を取り返し、勢いに乗って濮陽(ぼくよう)へ迫る。
(02)濮陽
陳宮(ちんきゅう)は籠城を勧めたが、呂布は聞かず、全城の兵を繰り出して物々しく対陣する。
呂布は挑みかかってきた許褚と典韋(てんい)を同時に相手にしたが、その戟(げき)にはなお余裕があった。
さらに夏侯惇(かこうじゅん)ら曹操幕下の勇将が6人も集まってくると、さすがに呂布も危険を悟り、一角を蹴破るや否や赤兎馬(せきとば)に鞭(むち)をくれて逃げる。
しかし城門まで引き揚げてくると、吊り橋が上げられていた。呂布が吊り橋を下ろせと怒鳴ったところ、城壁の上に富豪の田氏(でんし)が現れ、「今日からは曹将軍(曹操)に味方することに決めた」と言う。
やむなく呂布は定陶(ていとう)へ落ちていく。陳宮は東門に迫り田氏と交渉し、呂布の家族の身をもらい受けて定陶へ向かう。
(03)定陶
ひとまず定陶に入った呂布だったが、ここにも留まることはできず、袁紹(えんしょう)を頼るのはどうかと相談した。陳宮はすぐに賛成しなかったものの、一応は人を遣り袁紹の意向を探らせてみる。
★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第12回)では、曹操に敗れた呂布が定陶を放棄せざるを得なくなった際、呂布配下の部将の成廉(せいれん)が曹操配下の部将の楽進(がくしん)に射殺されていた。だが、吉川『三国志』では成廉を使っていない。
そのころ袁紹は審配(しんぱい)の意見を聞き、かえって曹操と結んで呂布を殺す動きに出た。袁紹は顔良(がんりょう)に5万余の兵を授けて曹操軍に協力させ、曹操へ親善の意を込めた一書も送った。
呂布はうろたえ当てもなく動いた末、陶謙の跡を引き継いだ徐州の劉備を頼ろうと考える。陳宮も、先方さえ容れるものならと賛成。
(04)徐州
劉備は呂布の使いから事情を聞くと、関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)を連れて自ら迎えに出ようとした。
それを糜竺(びじく。麋竺)が極力止める。糜竺は呂布の人柄を問題視するが、劉備は聞き入れず、わざわざ城外30里の彼方(かなた)まで迎えに行った。
劉備は呂布と挨拶を交わすと、袂(たもと)から徐州の牌印(はいいん。札と印)を取り出して譲ろうとする。
★『完訳 三国志』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、金田純一郎〈かねだ・じゅんいちろう〉訳 岩波文庫)の訳注によると、「欧陽修(おうようしゅう)の『五代史(ごだいし)』(巻63)『前蜀世家(ぜんしょくせいか)』に、節度(せつど)観察の牌と印を譲り渡した(節度使は、唐〈とう〉時代の軍司令官で地方行政の実権を握っていた)旨が見える」
「『通鑑(つがん)』(巻256)の中和(ちゅうわ)4年条の胡三省(こさんせい)の注によると、牌とは官印を箱から出した場合、その代わりに箱の中に入れておく札であるから、ある官印を預かる場合には当然、牌も一緒に預かることになる。これは唐の末(9世紀末)以後の制度であって、漢代(かんだい)には印だけであったろう」という。
呂布は無意識に受け取ってしまいそうになるが、劉備の後ろに立っていた関羽と張飛を見てさりげなく笑い、差し出した手を横に振った。
劉備は先に立ち、呂布一行を国賓として城内に迎え、夜には盛宴を開き、あくまで手厚くもてなす。
翌日、呂布は答礼として、劉備を自分の客舎に招待したいと使いを遣る。劉備は関羽と張飛から断るよう勧められたものの、ふたりも連れて呂布の客舎へ向かった。
(05)呂布の客舎
呂布は豪奢(ごうしゃ)な宴席を設けて劉備らを歓待。自分の夫人まで呼んで引き合わせた。そしてその席で、先に徐州が曹操の大軍に囲まれた際、自分が背後の兗州を突いたため、一時に徐州が救われたという話を始める。
酔うに従い、呂布が劉備を「賢弟」などと馴(な)れ馴れしく呼ぶと、張飛が突然、杯を床に投げ捨てて立ち上がった。
張飛が呂布を罵り剣を抜き払ったため、劉備は一喝して叱りつける。あわてて関羽も張飛を抱き止め壁際に押し戻す。
ようやく張飛が席に戻ると、劉備は笑いに紛らわせながら呂布に詫びた。その後、劉備はほどよく礼を述べて門を辞す。
呂布が見送りのため門の外まで出てくると、ひと足先にいた張飛が馬上に槍(やり)を横たえて現れ、300合の勝負を挑む。
驚いた劉備は乱暴を叱りつけ、関羽もまた劉備とふたりで張飛の駒の口輪をつかみ、しゃにむに帰り道へ引いていった。
(06)徐州
翌日、呂布は劉備を訪ね、暇(いとま)乞いを願い出る。劉備は張飛の無礼を謝ったうえ、小沛(しょうはい)で兵馬を養うよう勧めて引き留めた。呂布も特に当てがあるわけでもないので、一族と兵馬を引き連れて小沛に住むことにした。
管理人「かぶらがわ」より
万夫不当の武勇の持ち主でありながら、どうにも落ち着き先が見つからなかった呂布。ここでようやく徐州の劉備に受け入れてもらえました。
ただ呂布の場合、その野望を将軍号ぐらいにとどめておけば、もっとまともな暮らしができたと思うのですけど……。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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