吉川版『三国志』の考察 第203話 「馬超と張飛(ばちょうとちょうひ)」

またも隴西(ろうせい)で曹操(そうそう)に敗れた馬超は、馬岱(ばたい)や龐徳(ほうとく。龐悳)らわずか6、7名で漢中(かんちゅう)へたどり着き、張魯(ちょうろ)のもとに身を寄せる。

ほどなく張魯の許しを得た馬超が、漢中の兵馬をひきいて葭萌関(かぼうかん)へ攻め寄せると、劉備(りゅうび)は諸葛亮(しょかつりょう)の助言を受け、張飛に荊州(けいしゅう)の関羽(かんう)と留守を交代するよう言い渡す。だが、これに納得できない張飛は……。

第203話の展開とポイント

(01)許都(きょと)

隴西(ろうせい)の州郡はホッとしてもとの治安を取り戻した。夏侯淵(かこうえん)は、その治安の任を姜叙(きょうじょ)に託すとともに、楊阜(ようふ)を「勲功第一の人」と敬って車に乗せ、強いて上洛させる。このとき楊阜は身に数か所の戦傷を負っていた。

やがて車が許都へ着くと、曹操(そうそう)は忠義を称え、「以後、『関内侯(かんだいこう)』に封ぜん」と言った。

楊阜は固辞して恩爵を受けなかったが、重ねての曹操の言葉に否みがたく、恩を拝し一躍「関内侯」の大身(身分の高い人)となる。

新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『関内侯』は)爵位。『列侯(れっこう)』に次ぐ地位を持つ」という。

(02)漢中(かんちゅう)

馬超(ばちょう)と馬岱(ばたい)や龐徳(ほうとく。龐悳)ら6、7名は、流れ流れて漢中にたどり着く。そして、この国の「五斗米教(ごとべいきょう)」の宗門大将軍(しゅうもんだいしょうぐん)たる張魯(ちょうろ)のもとへ身を寄せた。

「五斗米教」については先の第187話(01)を参照。

張魯には年ごろの娘がいたので、彼女を馬超に娶(めあわ)せ、張家の婿として迎えてはどうかと考える。だが、一族の楊柏(ようはく)に相談すると、馬超は勇はあっても才略のない人で、父母や妻子を顧みない性行だと反対された。

これで縁談はやんでしまったが、それを馬超が小耳に挟み、楊柏に恨みを含んだ。恐れた楊柏は兄の楊松(ようしょう)を訪ね、「助けてください。何とか考えてください」と泣訴した。

ここへ蜀(しょく)の劉璋(りゅうしょう)の密使として黄権(こうけん)がやってくる。その日、ちょうど楊松は黄権と密談する約束だったので、弟を屋敷に待たせておき黄権の客館を訪問した。

黄権は、もし漢中の兵をもって劉備(りゅうび)を退治してくれるなら、蜀の20州(20県?)を分け、漢中の領土へ付属させる用意があると話したうえ、張魯への執り成しを求める。

楊松は尽力を約して城に上り、蜀への援兵派遣の件を再び評議したが、折から見えた馬超がこう断言する。

「それがしに一軍をお貸しあれば、葭萌関(かぼうかん)を破って一路蜀へ入り、劉備を討ち今日の厚恩にお報いしてみせん」

意を決した張魯は馬超に一軍を授け、楊柏を「軍奉行(いくさぶぎょう)」として従軍させ、ついに援蜀政策を実行に移した。

なお、ここで張魯の城が「法城」と表現されていた。これは地名というわけではなく、張魯が宗教家だということに由来しているものと思われる。

(03)綿竹関(めんちくかん)の関外 劉備の本営

劉備軍と劉璋軍は綿竹関の一線を境として戦い続けていた。やがて魏延(ぎえん)が、綿竹関第一の勇将である李厳(りげん)を生け捕りにする。劉備は魏延の功を称するとともに、李厳の縄を解いて敬う。

李厳は恩に感じ随身の誓いを入れ、同時に暇(いとま)を乞うてひとたび綿竹関へ戻った。綿竹関の大将の費観(ひかん)は、李厳とは莫逆(ばくぎゃく)の友である。費観は李厳に説かれると、その勧めに任せて城を出た。こうして綿竹関も劉備の入城を許すことになった。

(04)綿竹関

この前後、馬超が漢中の兵馬をひきいて葭萌関へ殺到しつつあるとの急報が届く。劉備が対策を諮ると、諸葛亮(しょかつりょう)は張飛(ちょうひ)を呼び、関羽(かんう)と留守を交代してもらいたいと言った。

張飛が不平を顔に表すと、諸葛亮はあっさり理由を話す。葭萌関へ新たに掛かってきた敵は、「馬超」という西涼(せいりょう)第一の豪雄であると。

張飛は指をかみ、「もしこの張飛が馬超に敗れたら、いかなる軍罰にも処したまえ」と誓約書を書き、血を注いで泣き、劉備と諸葛亮の前に差し出した。

それまでに言うならばと出陣を許したが、諸葛亮は入念にも、その先鋒には魏延を付し、後陣には劉備を仰いだ。

(05)葭萌関

葭萌関は四川(しせん)と陝西(せんせい)の省境にあたる険要で、ここへ劉備の援軍が入ったら、いよいよ破ることは難しいと思われる。そのため馬超は新手が着かないうちにと、連日の猛攻撃を続けていた。

しかし、すでに敵の先手も中軍も関内に到着し、この日、城頭には新たな旌旗(せいき)が目覚ましく加わっていた。それでも馬超の軍勢は猛攻の手を緩めず、急激に関門へ迫っていた。

ここで関上から一彪(いっぴょう)の兵が漢中軍の先鋒に挑んでくる。魏延と聞いた楊柏は、駆け寄って10合(ごう)余り戦ったものの、脆(もろ)くも薙(な)ぎ立てられ部下もろとも逃げ出した。

魏延は勝ちに乗り、つい敵中深くまで入り込む。そこは馬岱が控えている陣地で、魏延は「これこそ馬超だろう」と思い込み、刀を舞わせおめきかかった。

馬岱は紅槍(こうそう)をひねって迎え撃ち、しばらく戦っていたが、とっさに馬を巡らせ盾の陰へ逃げ込もうとする。このとき紅槍を投げつけたが、魏延は身を沈めてかわす。その間に馬岱は腰の半弓をつがえ一矢を送る。

魏延は右臂(みぎひじ)に矢を受け、危うく鞍輪(くらわ)をつかみ落馬を免れた。

井波版『三国志演義』(第65回)では、このとき魏延は左肘(ひだりひじ)に一本の矢を受けたとある。

これを機に魏延は駒を返し、葭萌関の内へ駆け込んでしまう。馬岱はひとたび崩れだした味方を立て直し、また関門の下へ寄せ返した。すると関上から、改めてひとりの猛将が駆け下りてくる。

張飛と聞いた馬岱は願ってもない好敵と、大剣を鳴らし迫った。だが、張飛は相手が馬超でなく馬岱だと知ると、そんな者では相手にならんとからかう。

馬岱は斬りかけるが、張飛の一丈(いちじょう)八尺(はっせき)の大矛はすぐに彼の剣を叩(たた)き落としてしまった。

「一丈八尺の大矛」については先の第9話(04)を参照。

そこで馬岱が逃げかけると、張飛は「こらっ馬岱。その首を置いていけ」と、ほとんどからかい半分に怒鳴りながら追おうとする。これを関上から止めたのは劉備だった。

それから劉備は櫓(やぐら)に登り、敵陣を瞰望(かんぼう)していた。そして陣前に馬超の姿を見つけると、その武者ぶりを褒めちぎる。そばで聞いていた張飛は牙(きば)をかみ、身をうずかせていた。

馬超は関門の下へ来て張飛を挑発したが、傍らの劉備は「今日は出るな」と、どうしても許さない。翌日も馬超が出てくると、「今は行け」と許す。

張飛と馬超との間ですさまじい決戦が始まる。その激しさは見る者の肝を縮めさせた。まさに猛鷲(もうしゅう)と猛鷲とが相搏(う)って、肉をかみ合い雲に叫び合うようだった。

100合余り戦っては馬を換えてまた出会い、5、60合の火を降らせては水を求めまた闘う。時間にすると、中天の日が西の空へ傾くまで。それでも勝負はつかず、馬超も張飛もいよいよ精気と神力を振るっていた。

日が暗くなりかけると両軍の間に使者の交換が行われ、「篝(かがり)を焚く間、しばし軍を収め二将軍(にしょうぐん)にも休息を願い、さらに精気を改め決戦してはいかが?」となった。

双方同時に退鉦(ひきがね)が鳴らされ、馬超も張飛も満面から湯気を立て自陣へと退がる。

しばらくして再び張飛が関門を出ようとすると、劉備は「夜に入った。戦(いくさ)は明日にいたせ」と留めて放さない。万一張飛が負け、馬超に討たれでもしてはと、今日の合戦を見てにわかに心配になったからである。

ところが寄せ手は夜に入っても退かず、松明(たいまつ)を連ねて篝火を焚き、「張飛、もう出てくる精はないのか?」とあざ笑った。張飛は劉備の命に背いて関門を開き、馬超へ躍りかかる。すると馬超は脆くも逃げ出す。

張飛も詐術であると悟っていたが、持ち前の性格から追い続け、つい深入りしてしまう。ここで馬超は急に駒を止め、振り向いて一矢を放つも、張飛は身をかがめたまま突進した。

馬超は弓を捨て、銅作りの八角棒を持って待ち受ける。張飛の蛇矛(じゃぼう)は猿臂(えんぴ)を加え2丈余りも前へ伸びた。

「蛇矛」についても先の第9話(04)を参照。

そのとき「待て。張飛」と後ろから声がする。劉備が追ってきたのだ。そして劉備は馬超にこう言った。

「自分は天下に向かって仁義を旗印とし、今日までまだ一度も欺いたことはない。自分を信じて今日は退きたまえ。それがしも退くであろう」

終日の戦にさすがに疲れていた馬超は、これを聞くと「さらば」と一礼を投げ、きれいに陣を退き去った。

その夜、葭萌関に諸葛亮が着く。つぶさにその日の状況を聞き取ると、やがて劉備の前に出て忠言する。

「馬超と張飛をこのまま幾たびも闘わせておいたら、必ず一方は討ち死にするに決まっています。両方とも希世の英雄。これを殺すことは、恐れながらあなたの徳望を損ねましょう」

劉備ももとより同じ気持ちだった。しかも諸葛亮は、馬超を味方に招く自信があるという。

さらに諸葛亮は、馬超が常にも増して強い理由や、その種を蒔(ま)いておいたのが自分であることなどを話して聞かせる。そのうえで、自ら彼のもとへ出向き説得するという。劉備は容易に許さず、「今夜ひと晩、考えてからにしよう」と応じた。

しかし翌日、ひとりの適当な人物が劉備を訪ねてきた。その人は「李恢(りかい)」、あざなを「徳昂(とくこう)」と言い、蜀中の賢人と言われて士民の尊敬も浅くないので、綿竹の趙雲(ちょううん)からわざわざ書簡を添え紹介してきたものである。

李恢は劉備に会うと、自分のほうから馬超を招降する話を持ち出し、説得役を買って出る。衝立ての陰で聞いていた諸葛亮も李恢の人物を認め、劉備に許しを求めて書簡を仰いだ。

(06)葭萌関の関外 馬超の本陣

李恢は馬超から問われ、悪びれもせず説客(ぜいかく)であることを認める。ただ、劉備から頼まれたのではなく、亡き馬騰(ばとう)から頼まれたのだと言う。

李恢は、泉下(あの世)の父の無念を思えと諭し、たとえ御身(あなた)が劉備に勝ったところで、喜ぶのは仇敵(きゅうてき)の曹操ではないかと説く。

話を聴いていた馬超は身を崩し、李恢の前に泣き倒れる。李恢は馬超の腕を取り、劉備が待っていると促した。

管理人「かぶらがわ」より

張魯の軍勢をひきいて葭萌関へ攻め寄せた馬超でしたが、諸葛亮の手回しにより進退両難に陥ります。

その武芸は張飛と互角で、「西涼の錦(きん。ここでは『優れている』の意)馬超」と称される武者ぶり。こうなると、やはり討ち死にさせるわけにはいきませんね。

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