吉川『三国志』の考察 第129話 「諸葛氏一家(しょかつしいっか)」

諸葛亮(しょかつりょう)は4人きょうだいの次男で、兄の諸葛瑾(しょかつきん)と弟の諸葛均(しょかつきん)、そしてひとりの妹がいた。

だが、彼が10代半ばになるころまでには父母とも亡くなってしまい、一時は流浪を経験するなど苦労を重ねる。縁あって石韜(せきとう)の下で学んだあと、ようやく襄陽(じょうよう)郊外の隆中(りゅうちゅう)に落ち着いたのだった。

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第129話の展開とポイント

(01)諸葛亮(しょかつりょう)の祖先

諸葛亮の祖先には諸葛豊(しょかつほう)がおり、前漢(ぜんかん)の元帝(げんてい。劉奭〈りゅうせき〉。在位、前48~前33)のころに司隷校尉(しれいこうい)を務めていた。

諸葛豊は非常に剛直な性で、法律に従わない輩(やから)はどのような特権階級でも容赦しなかったという。

元帝の外戚(がいせき)にあたる許章(きょしょう)の不法行為を厳しく取り締まったことでかえって元帝から恨まれ、城門校尉(じょうもんこうい)に左遷された。

それでもなお、彼はしばしば大官の罪をただして仮借しなかったため、ついに大官連から排撃され、免職後は是非なく一庶民に帰してしまったのだと。

その祖先の帰郷した地が瑯琊(ろうや。琅邪)だったか明瞭(めいりょう)ではないものの、諸葛亮の父の諸葛珪(しょかつけい)のころには瑯琊郡の諸城県(しょじょうけん)から陽都県(ようとけん)に移り一家を固めていた。

また諸葛という姓は、初めは葛という一字姓だったかもしれない。諸国を通じ漢人の中にも二字姓は至ってまれである。

もとは単に葛氏だったが、諸城県から陽都県へ家を移したとき城中に憚(はばか)る同姓の家柄があったため、前の住地の諸城県の諸をかぶせ、諸葛という二字姓に改めたという説などもある。

諸葛亮の父の諸葛珪は泰山郡丞(たいざんぐんのじょう)を務め、叔父の諸葛玄(しょかつげん)は予章太守(よしょうのたいしゅ。豫章太守)だった。

(02)諸葛亮のきょうだい

諸葛亮は4人きょうだい。3人は男子でひとりは女子。諸葛亮は次男だった。兄の諸葛瑾(しょかつきん)は早くから洛陽(らくよう)の太学で学んでいたが、その間に彼らの生母が亡くなる。父には後妻(章氏〈しょうし〉)が来た。

原文「大学」だが、ここは「太学」としておく。

ところがその後妻を残し、今度は父の諸葛珪が亡くなる。このとき諸葛亮は14歳になるかならないころだった。

諸葛亮は光和(こうわ)4(181)年生まれなので、14歳というなら興平(こうへい)元(194)年ごろの設定か。なお正史『三国志』には、諸葛珪の生没年についての記事がない。

腹違いの子3人を擁し、後妻の章氏は途方に暮れていたが、ここへほぼ太学を卒業した諸葛瑾が帰ってくる。そして洛陽の大乱を告げた。

腹違いの子は、(きょうだいの間で)父が同じで母が違うという意味だと思うが、ここでは後妻の章氏が生んだわけではない子(つまり前妻の子)という意味で使われているようだ。

諸葛瑾は継母を励まし、江東(こうとう)にいる叔父の諸葛玄を頼って南へ逃げる。

諸葛氏一家は諸葛瑾を杖(つえ)とも柱とも頼み、家財道具と継母を車に乗せ、諸葛亮や弟の諸葛均(しょかつきん)、それに妹らを励まし、わずかな奴僕に守られつつ、飢民の群れに混じり日々果てなき旅を続けた。

こうして叔父の諸葛玄のもと(具体的な場所はわからず)へとたどり着いたのは初平(しょへい)4(193)年の秋のことで、長安(ちょうあん)で董卓(とうたく)が殺された大乱の翌年だった。

これは先の諸葛亮の年齢設定ともほぼ合う。強いて言えば、諸葛亮はこのとき13歳だったことになるが……。

そこに半年ほどいるうち、諸葛玄は劉表(りゅうひょう)の縁故により荊州(けいしゅう。襄陽〈じょうよう〉)へ行くことになった。

(03)荊州(襄陽)移住後の諸葛亮

諸葛亮と弟の諸葛均は諸葛玄の家族とともに荊州へ移住。だが、これを機に兄の諸葛瑾はみなに別れを告げ、継母の章氏を伴い呉(ご)の地方へ志を求めていった。

ここでは妹についての記述がなかった。諸葛玄についていったのか? それとも諸葛瑾についていったのか?

ところが荊州に来て1年足らずで、諸葛玄は劉表の命により、病死した周術(しゅうじゅつ)の後任として予章太守に転ずる。

太守の格なので栄転には違いなかったが、任地の南昌(なんしょう)へ行ってみると荊州よりずっと文化が低く、新任の太守に服さない勢力が交錯していた。

さらに、漢朝から任命された太守ではないからと、諸葛玄を弾劾する声が日増しに高まった。事実、漢朝の辞令を帯びた朱皓(しゅこう)という者が公然と南昌へやってくる。

しかし、先に諸葛玄が来ていたため城内へ入れず、当然ながら戦争になった。朱皓のほうには笮融(さくゆう)や劉繇(りゅうよう)といった豪族が味方についたので、諸葛玄は敗れ南昌から追い出されてしまう。

諸葛亮と諸葛均は諸葛玄の一家とともに乱軍の中を落ち、城外遠くに屯(たむろ)して再起を図った。そうしたある夜のこと、諸葛玄は土民の襲撃を受け、武運つたなく首を取られてしまった。

諸葛亮は弟の諸葛均を励ましつつ、惨めな敗兵と一緒に逃げ歩く。叔母も身寄りもみな殺され、周りは知らない顔の兵士ばかりだった。

(04)石韜(せきとう)の下で学ぶ諸葛亮

そのころ潁川(えいせん)の大儒である石韜は、諸州を遊歴して荊州に来ていた。17歳になっていた諸葛亮は、石韜の門を叩(たた)き学僕となる。

ここで学僕という表現が出てきた。文字どおり受け止めると「学者の家や塾などで、働きながら学問をする若者」という感じになると思う。たが諸葛亮の場合は、働きながら学問をしたというのが当てはまるのかどうか? 彼のことを学僕と表現された意図がイマイチつかめなかった。

翌年、石韜は近国へ遊学に歩く。そのとき従った弟子の中に白面18歳の諸葛亮があり、一剣天下を治むの概を持つ徐庶(じょしょ)があり、温厚篤学な孟建(もうけん)がいた。

しかし諸葛亮は、20歳を出るか出ないうちに学府を去る。その後は襄陽の西郊に隠れ、弟の諸葛均とともに半農半学者的な生活に入ってしまう。

(05)隆中(りゅうちゅう)に隠棲(いんせい)する諸葛亮

学友はみな諸葛亮を嘲笑(ちょうしょう)し、多少は彼を認め尊敬していた者まで月日とともに離れていった。ただ相変わらず、徐庶や孟建は彼の草廬(そうろ)へよく往来していた。

孟建などがうわさするせいか、襄陽の名士の間には、いつか諸葛亮の存在と人物は無言のうちに認められていた。

いわゆる襄陽名士なる知識階級の一群には、崔州平(さいしゅうへい)、司馬徽(しばき)、龐徳公(ほうとくこう)などという大先輩がいた。

中でも河南(かなん)の名士である黄承彦(こうしょうげん)は、すっかり諸葛亮を見込んで娘を嫁がせた。この娘は、父の顔をもう少しかわいらしくした程度の不美人だった。貞淑温雅で名門の子女としての教養は申し分ないが、天質の容姿には至って恵まれていなかった。

それでも、諸葛亮とその新妻とは実にピッタリしていた。相性というか、琴瑟(きんしつ)相和して(夫婦の仲が非常にいいたとえ)という文字どおり仲が良い。こうして隆中における生活も、ここ数年を平和に過ごしてきた。

諸葛亮の身の丈は人並み優れていた。肉は薄く、漢人特有な白皙(はくせき。肌が白くて)長身だった。

彼の志は官吏や学者というところにはなく、栄達の門もその志を入れるには狭かった。春秋(しゅんじゅう)の宰相の管仲(かんちゅう)と戦国(せんごく)の名将の楽毅(がっき)。このふたりを心に併せ持ち、密かに高い矜持(きょうじ)を保っていたのである。

管仲は斉(せい)の桓公(かんこう)を補佐して富国強兵政策を採り、春秋列国の中に覇を唱えしめ、「一にも仲父(ちゅうほ)、二にも仲父」と頼まれたほどの大政治家。

そして、楽毅は春秋戦国の世に燕(えん)の昭王(しょうおう)を扶(たす)け、5か国の兵馬を指揮し斉の70余城を陥したという武人だった。

歳月の流れは早い。いつか建安(けんあん)12(207)年、諸葛亮は27歳になった。

劉備(りゅうび)が徐庶から彼のうわさを聞き、その草廬を訪う日を心がけていたのは、実にこの年の秋も暮れなんとしているころだったのである。

ここでの諸葛亮の年齢の記述は史実とも合う。

管理人「かぶらがわ」より

諸葛亮の生い立ちなどが語られた第129話。吉川先生の思い入れが強く感じられました。後の三国の皇帝(こうてい)ではないひとりの登場人物に、これだけのページ(紙面)を割くのは異例だと思います。

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吉川『三国志』 (05) 孔明の巻
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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