吉川『三国志』の考察 第034話「石(いし)」

荊州(けいしゅう)の諸城を手際よく陥し、劉表(りゅうひょう)の本拠である襄陽(じょうよう)を包囲する孫堅軍(そんけんぐん)。

ところが蒯良(かいりょう)の計にはまり、孫堅は思わぬ形で最期を遂げる……。

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第034話の展開とポイント

(01)襄陽

旋風(つむじかぜ)が吹いた翌日、蒯良が密かに劉表に進言。昼の狂風のほかにも、夜に入って常には見ない熒星(けいせい。火星)が西の野に落ちたことを伝える。

蒯良は、味方にとって憂うべきことではなく、むしろ壇を設け祭ってもいいくらいだと言い、この機を外さず袁紹(えんしょう)に使者を遣わし、援助を乞うよう勧めた。

劉表が、城外の孫堅軍の囲みを突破して使いをする者を募ったところ、呂公(りょこう)が進んで命を受けた。

蒯良は一策を授け、敵の囲みを破った後で峴山(けんざん)に登り、山の要所に準備しておいた岩石や大木、そして矢をもって追撃してくる敵を撃退し、そのうえで袁紹のもとへ向かうよう伝える。

その夜、呂公は密かに鉄騎(精鋭の騎兵)500を従えて城外へ抜け出した。

(02)峴山

孫堅は襄陽城から兵が脱出したことに気づくと、自ら馬に飛び乗り真っ先に追いかける。急だったので、すぐに続いた者は3、40騎しかいなかった。

呂公が山上によじ登り迎撃の準備を整えていたところ、山の下まで追ってきた孫堅が部下たちと登りにかかる。

断崖の上にいた呂公が合図を送ると大小の岩石が一度に落とされ、下にいた孫堅とその部下3、40人を埋めるばかりとなった。さらに四方の木陰からもすさまじい矢うなりが周囲を包む。

孫堅は、頭上に降ってきた一個の巨大な磐石(ばんじゃく。岩)に馬もろとも押しつぶされ亡くなった。このとき37歳。初平(しょへい)2(191)年の辛未(かのとひつじ)、11月7日の夜のことだった。

夜明けと同時に、疎林の中に残っていた射手の一部隊が孫堅の死体を見つけると、狂喜して城内へ奪い去った。

孫堅の死は初平2(191)年のことなのか、初平3(192)年のことなのかはっきりしない。『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝)では、孫堅が亡くなった年を初平3(192)年としている。

だが『三国志』(呉書・孫策伝〈そんさくでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』には、建安(けんあん)3(198)年に(孫堅の息子の)孫策が献帝(けんてい)に奉った、詔(みことのり)に対する謝意を示した上表文が載せられており、その中で父の孫堅を17歳の時に亡くしたことを述べている。

裴松之は、本伝に孫策が建安5(200)年に亡くなり、そのとき26歳だった(つまり熹平〈きへい〉4〈175〉年生まれ)とあることに着目。もし孫堅が亡くなったのが初平3(192)年であるなら、当時の孫策は17歳ではなく18歳だったことになる。そして『呉録』にある上表文の内容とも矛盾すると指摘。

そのうえで、張璠(ちょうはん)の『漢紀(かんき。後漢紀〈ごかんき〉)』や胡沖(こちゅう)の『呉歴(ごれき)』が孫堅の死を初平2(191)年としていることも挙げ、「孫堅伝」のほうが誤りだと結論づけている。

なお『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第7回)では、「(孫堅が亡くなったのは)初平3(192)年、辛未、11月7日であった」とある。

(03)襄陽

黄祖(こうそ)・蔡瑁(さいぼう)・蒯良などがみな一斉に城門を開き、大混乱する孫堅軍を突き崩しにかかる。孫堅を失った兵士たちは戦うも力なく、討たれる者は数知れなかった。

黄祖も城内から打って出ていたが、いつ彼が鄧城(とうじょう)から戻ってきたのかわからない。なお、井波『三国志演義(1)』(第7回)では黄祖が襄陽に戻ってきたことが書かれており、このような疑問は感じない。前の第33話(08)を参照。

漢江(かんこう。漢水〈かんすい〉の別名)の岸に兵船をそろえていた黄蓋(こうがい)は、孫堅の不慮の死を知り大いに憤る。そこで船から兵を上げ、追撃してきた黄祖軍に当たると乱軍の中で黄祖を生け捕る。

また、漢江まで逃げる孫策を見かけた呂公が追ってくると、孫策は程普(ていふ)とともに討ち取る。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では、程普が(ひとりで)呂公を討ち取ったように描かれていた。

こうして完全に夜が明けると、劉表軍は城内に引き揚げ、孫策軍も漢水方面まで退いた。相互の死傷者は驚くべき数に上っていた。

孫策が、父の遺体が敵の手に収められたことを知り慟哭(どうこく)していると、黄蓋は敵将の黄祖を生け捕りにしてあると伝え、彼の身柄と交換する形で孫堅の遺体を味方へ乞い受けるよう進言。

孫策は軍吏の桓楷(かんかい。桓階)を遣わし、孫堅の遺体と黄祖の身柄との交換をまとめ、同時に両軍は停戦協定も結ぶ。

このとき蒯良は、桓楷の首を刎(は)ね、漢水への追撃を命ずるべきだと反対したが、劉表は、黄祖とは心腹の交わりがある君臣だと言い、その意見を退けた。

孫策は弔旗を掲げて国へ帰り、父の柩(ひつぎ)を長沙城(ちょうさじょう)に奉じ、やがて曲阿(きょくあ)で荘厳な葬儀を執り行った。

管理人「かぶらがわ」より

孫堅の死にはいろいろな説がありますが、ここで採られている最期もかなり劇的なもの。

こういうところが孫堅の魅力のひとつなのでしょうけど、やはり大将自身が先頭を駆けるのはリスクも大きいですね。

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