吉川『三国志』の考察 第084話「偽帝の末路(ぎていのまつろ)」

袁術(えんじゅつ)の北上を食い止めるという名目で軍勢を借り受け、ついに許都(きょと)から離れる劉備(りゅうび)。

劉備軍が徐州(じょしゅう)で袁術軍を大破すると、一時は強大な勢力を誇った袁術も、各地をさまよった末に吐血して果てた。

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第084話の展開とポイント

(01)徐州

かねて董承(とうじょう)らの義盟に名を連ねていた西涼太守(せいりょうたいしゅ)の馬騰(ばとう)。劉備が都(許都)を脱出してしまったので、本国に胡族(えびす)の襲来があったと触れ、にわかに西涼へ帰る。

建安(けんあん)4(199)年6月、すでに劉備は徐州に到着していた。徐州城には、先に曹操(そうそう)が仮の太守として車冑(しゃちゅう)を留めている。

劉備は車冑に曹操の意向を伝えたうえ、急速かつ密かに袁術の近況と淮南(わいなん)の情勢を調べてほしいと頼む。

劉備と車冑とのやり取りの中で、曹操が劉備に付けたふたりの部将が朱霊(しゅれい)と露昭(ろしょう)であることに触れていた。露昭は正史『三国志』では路招とあり、『三国志演義』では路昭とある。

劉備は糜竺(びじく。麋竺)や孫乾(そんけん)らと再会し、車冑が設けた宴席に臨む。そして糜竺や孫乾らとともに城を出て、久しぶりに妻子のいる旧宅へ帰った。

(02)徐州 劉備邸

まず劉備は老母の部屋へ行き、帰還を報告。許都に上った際に天子(てんし。献帝〈けんてい〉)に拝謁し、長らく埋もれていたわが家が再び漢家(かんか。漢の宗室)の系譜に記録され、いささか地下の祖先の祭りもできるようになったとも伝えた。

続いて妻子たちとも再会。やがて一堂は団欒(まどい)ににぎわい、いつしか劉備もその中に溶け入り、他愛ない家庭人になりきっていた。

(03)淮南

袁術は自ら皇帝と称して、居殿や後宮もすべて帝王の府に擬し、莫大(ばくだい)な費えをかけていた。そのため民に重税を課し、暴政の上にまた暴政を布(し)くという無理をしなければ維持できない状態になっていた。

当然ながら民心は背き、内部はもめる。配下の部将の雷薄(らいはく)や陳蘭(ちんらん)なども、これでは行く末が思いやられると、嵩山(すうざん)へ身を隠してしまう。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・袁術伝)によると、雷薄と陳蘭がいたのは灊山(せんざん)。

これに加え近年の水害で、まったく国政は行き詰まった。そこで袁術が起死回生の一策として思いついたのが、河北(かほく)の兄の袁紹(えんしょう)に持て余した帝号と伝国の玉璽(ぎょくじ)を押しつけ、いよいよ身を守ることだった。

袁術は袁紹から内諾を得ると浅はかにも一切の人馬を取りまとめ、水害に飢えて動けない民だけを残し、淮南から河北へ移ろうと決める。

皇帝の御物(帝室所有の宝物)や宮門の調度だけでも数百輛(りょう)の車を要す。後宮の女人を乗せた駕車(がしゃ)や、一族老幼を乗せた驢(ロ)は延々数里にわたった。

これに騎馬や徒歩の軍隊が続き、将士の家族や家財まで従っていくので、前代未聞の大規模な引っ越しとなる。その大列は北へ北へと移動し、やがて徐州に差しかかった。

(04)徐州

劉備は朱霊と露昭を左右に備え、総勢5万の軍勢で待ち受ける。

袁術の先鋒の紀霊(きれい)が打って出ると、張飛(ちょうひ)が応じて10合ばかり戦い、たちまち紀霊を一槍(いっそう)に刺し殺す。

袁術の麾下(きか)は次々と討ち減らされ、乱れ立った後方から一彪(いっぴょう)の軍馬が中軍を猛襲し、兵糧や財宝、婦女子などを車ごと略奪していく。この盗賊軍は、先に嵩山(ここも灊山とすべきか)へ隠れた陳蘭や雷薄などの輩(ともがら)だった。

怒った袁術は自ら槍を持ち狂奔していたが、顧みると味方の先鋒は壊滅しており、二陣も蹴破られ、黄昏(たそがれ)かけた夕月の下に数えきれない味方の死体が見えるばかりだった。

(05)江亭(こうてい)

袁術は昼夜も分かたず逃げたが、途中で強盗や山賊の類いに脅かされ、強壮な兵は勝手に逃げ散ってしまい、ようやく江亭まで引き揚げてくる。

味方を数えてみると1千人にも足らず、その半数が肥え膨れた一族の者や物の役に立たない老吏、それに女子どもだった。

時は(建安4〈199〉年の)大暑の6月で、困苦はひとかたでない。10里行けば10人減り、50里行けば50人減っていく。袁術は一族の老幼や日ごろの部下も惜しげなく捨てて逃げた。

それでも、幾日が落ちていくうちに持っていた兵糧もなくなる。麦のすりくずを食べて3日も忍んだが、もうそれすらもなくなった。餓死する者は数知れない。

揚げ句の果て、着ている物まで野盗にはぎ取られ、よろ這(ば)うごとく十数日かを逃げ歩いた。彼のそばには甥の袁胤(えんいん)ひとりしか残っていなかった。

ここで、ようやくふたりは一軒の農家を見つける。袁術は農夫に蜜水がほしいと言うが、血水ならあるが、蜜水などあるものかと突き放された。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第21回)では、袁術に蜂蜜水などないと言ったのは(袁術配下の)料理人。

袁術は、もはやひとりの民も持たない国主、一杯の水を恵む者もない身になったことを悟って号泣。カッと口から2斗の血を吐くと、朽ち木が倒れるかのように死んでしまった。

(06)廬江(ろこう)

袁胤は泣く泣く袁術の屍(しかばね)を埋め、ひとりで廬江方面へ落ちていく。ところがその途中、徐璆(じょきゅう)が彼を捕らえて伝国の玉璽を見つける。徐璆は拷問にかけ、袁術の最期の様子を自白させた。

徐璆はこの一件を文書で曹操に知らせ、併せて伝国の玉璽も送ったところ、功により広陵太守(こうりょうたいしゅ)に任ぜられた。

『三国志演義』では、徐璆が高陵太守に任ぜられたとあった。

(07)徐州

劉備は所期の目的を果たしたため、朱霊と露昭を許都へ帰らせる。だが曹操から借りた5万の兵は、境を守るためと称して徐州に留めた。

(08)許都

朱霊と露昭は許都へ帰り、劉備の言葉をそのまま曹操に伝える。曹操は烈火のごとく怒り、許しを待たずになぜ徐州に兵を残してきたのかと、即座にふたりの首を刎(は)ねようとした。

これを荀彧(じゅんいく)が諫め、このうえは車冑に謀略を授け、今のうちに劉備を討つのみだと言う。曹操はその言を容れ、密かに車冑に一書を送って策を授けた。

管理人「かぶらがわ」より

皇帝を僭称(せんしょう)した袁術でしたが、ここで悲惨な最期を迎えることに……。

一方、曹操から借りた5万の兵をちゃっかり徐州に留めた劉備。やはり表面的な友好関係というのは長続きしませんね。

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