吉川『三国志』の考察 第292話「司馬仲達計らる(しばちゅうたつはからる)」

魏(ぎ)の太和(たいわ)3(229)年4月、司馬懿(しばい)ひきいる魏軍と諸葛亮(しょかつりょう)ひきいる蜀軍(しょくぐん)が、初めて祁山(きざん)で対峙(たいじ)した。

蜀は別動部隊を用いて、武都(ぶと)と陰平(いんぺい)を攻略。諸葛亮の読みはことごとく司馬懿の先を行く。司馬懿は諸葛亮の実力を改めて思い知り、急に動きを見せなくなる。

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第292話の展開とポイント

(01)祁山

蜀の諸葛亮と魏の司馬懿とが、堂々と正面切って対峙するの壮観を展開したのは、実にこの(蜀の)建興(けんこう)7(229)年4月の、祁山夏の陣をもって最初とする。

それまでの戦いでは、司馬懿はもっぱら洛陽(らくよう)にあって陣頭に立たなかったと言ってよい。

序戦の街亭(がいてい)の役には自ら西城(せいじょう)まで迫ったが、諸葛亮は楼上に琴を弾じ、彼の疑い退くを見るや、風のごとく漢中(かんちゅう)へ去ってしまった。

両々相布陣して、乾坤一擲(けんこんいってき)に勝敗を決せんとするような大戦的構想は、ついにその折には実現されなかった。

諸葛亮も司馬懿の非凡を知り、司馬懿ももとより諸葛亮の大器はよくわきまえている。そのうえでの対陣である。しかも司馬懿軍の10万余騎は、まだ傷つかざる魏の新鋭であり、その先鋒の張郃(ちょうこう)も百戦を経た雄将だった。

(02)祁山 司馬懿の本営

祁山に着いた日、司馬懿は郭淮(かくわい)と孫礼(そんれい)にこう尋ねる。

『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第99回)では、司馬懿は10万の軍勢をひきいて祁山に到着し、渭水(いすい)の南に陣を布(し)いたとあった。

「一望するところ、孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)は祁山の3か所に陣を構え、旗旛(きはん。旗や垂れ下がる幟〈のぼり〉の類い)整々たるものが見える。貴公らは彼がここへ出て以来、幾度かその戦意を試みてみたか?」

ふたりとも、まだ一度も戦っていないとの答え。司馬懿は続けて言った。

「孔明としては、必ず速戦即決を希望しているだろうに、敵も悠々とあるは、何か大なる計があるものと観なくてはならぬ。隴西(ろうせい)の諸郡からは何の情報もないか?」

すると果たして、武都と陰平へ遣った連絡の者だけが帰ってきていないという。

司馬懿は、諸葛亮がその二郡を攻めようとしていると告げ、間道から救援に向かうよう命ずる。そして守備を固めた後、祁山の後ろへ出よとも。郭淮と孫礼は即夜、数千の兵をひきいて隴西の小道を迂回(うかい)する。

井波『三国志演義(6)』(第99回)では、このとき郭淮と孫礼がひきいた軍勢は5千。

(03)救援に向かう郭淮と孫礼

途中ふたりは、諸葛亮と司馬懿のどちらが優れていると思うか、などと語り合いながら進む。

すると夜明けごろ、急に先頭の兵馬が騒ぎだす。何事かと見ると、一山の松林の中に「漢(かん)の丞相(じょうしょう)諸葛亮」と記した大旗が翻り、霧か軍馬か濛々(もうもう)たるものが山上からなだれてくる。

先の第288話(09)でも似たことが見られたが、ここで諸葛亮の旗に「漢の丞相」と記すのはまずい。諸葛亮は街亭の敗戦の責任を取る形で、自ら願い出て右将軍(ゆうしょうぐん)に降格された。先の第286話(02)を参照。

とはいえ、気持ちとしては理解できる。ここで「漢の右将軍諸葛亮」と書いていたのでは、いかにも安っぽく見えるので……。ちなみに井波『三国志演義(6)』(第99回)でも、軍旗には大きな字で「漢丞相諸葛亮」と記されているとあった。

ふたりがいぶかしんでいる間に、一発の山砲が轟(とどろ)く。それを合図に、四山金鼓の声を上げ、郭淮と孫礼がひきいてきた4、5千人は、完全に包囲された形になる。

諸葛亮は四輪車の上から呼ばわりつつ、群がる敵を前後の旗本に討たせながら近づいてきた。

「夜来の旅人。もはや先へ行くは無用。隴西の二郡はすでに陥ちてわが手にあり。汝(なんじ)らも無益な戦いはやめ、わが前に兜(かぶと)を投げよ」

郭淮と孫礼はおめき合って血の中へ挺身(ていしん)したが、蜀の王平(おうへい)と姜維(きょうい)の二軍に阻まれる。

手勢を討ち減らされると、「今は是非なし」と、無我夢中で逃げ出した。これを蜀の張苞(ちょうほう)が追う。しかし、魏のふたりの逃げるのも盲滅法(めくらめっぽう)だったし、張苞の急追もあまりに無茶だった。

松山の近い岩角に、乗っていた馬がつまずいたとたん、張苞は馬もろとも谷底へ転げ落ちてしまう。

後に続いていた蜀兵は、「やや。張将軍が谷へ落ちた――」と、逃げる敵もさておき、皆で谷底へ下りていく。

張苞は岩角に頭を打ちつけたため重傷を負い、流れのそばに昏絶(こんぜつ)していた。

(04)祁山 司馬懿の本営

郭淮と孫礼が惨たる姿で逃げ帰ってきたのを見ると、司馬懿は慙愧(ざんき)し、かえってふたりに詫びる。

「この失敗はまったく貴公らの罪ではない。孔明の知謀が我を超えていたからだ。しかしこのわしにも、なお別に勝算がないでもない。貴公らは雍(よう。雍城)と郿(び。郿城)の二城へ分かれて堅く守っておれ」

司馬懿は一日沈思していたが、やがて張郃と戴陵(たいりょう)を招くと言った。

「武都と陰平の二城を取った孔明は、さしずめ戦後の経策と撫民(ぶみん)のため、その方面へ出向いているに違いない。祁山の本陣には依然、孔明がいるような旌旗(せいき)が望まれるが、おそらく擬勢であろう」

「汝らはおのおの1万騎を連れて、今夜、側面から祁山の本陣へ掛かれ。儂(み。我)は正面から当たって、一挙に彼の中核を突き崩さん」

(05)祁山

張郃はかねて調べておいた間道を縫い、夜の二更(午後10時前後)から三更(午前0時前後)にかけ、馬は枚(ばい。夜に敵を攻める際、声を出さないよう口にくわえさせた細長い木)を含み、兵は軽装捷駆(しょうく)して、祁山の側面へ迂回する。

途中は峨々(がが)たる岩山の狭い道ばかり。行くこと半途にして、その道も重畳たる柴(シバ)と木材、さらに車の山でふさがっていた。張郃が踏み越えて進めと励ましていると、たちまち四方から火の手が上がり、魏兵の進路を危うくする。

山上で高らかに言っているのは、紛れもない諸葛亮の声。

「愚や、愚や。司馬懿の浅慮者(あさはかもの)が、前にも懲りず、再び同じ敗戦を部下に繰り返させている。見ずや、孔明は武(武都)、陰(陰平)にあらず。ここにあるぞ」

怒った張郃が、無理に馬を立てて駆け上がろうとすると、諸葛亮の下知に応じて、巨木や大石が流れを下るごとく落ちてくる。

張郃の馬は足をくじいて倒れた。彼は別の馬を拾ってふもとへ逃げ退いたが、友軍の戴陵が敵の重囲に落ちているのを知ると、取って返して救い出し、ついにもとの道へ引き返していく。

諸葛亮は、後で言った。

「むかし当陽(とうよう)の激戦で、わが張飛(ちょうひ)とかの張郃とが、いずれ劣らぬ善戦をなしたので、当時、『魏に張郃あり』と、大いに聞こえたものだ。その理由なきにあらざるものを、今夜の態度にも見た」

「やがて彼は蜀にとって油断のならぬ存在になろう。折あらば、必ず討ってしまわねばならない害敵のひとりだ」

張郃が良将なのは否定しないが、ここで諸葛亮がたたえた内容に違和感がある。当陽での張郃は、阿斗(あと。劉禅〈りゅうぜん〉の幼名)を抱いた趙雲(ちょううん)を阻もうとして、肩先から馬体まで一刀に斬り下げられ、すさまじい血をかぶっていただけだった。このあたりのことについては、先の第143話(03)を参照。

だが第143話で見える張郃と、この第292話で見える張郃が同一人物なのか、イマイチはっきりしない。ちなみに井波『三国志演義(6)』(第99回)では、諸葛亮が左右の者に「以前、張翼徳(ちょうよくとく)どのが張郃と激しく戦い、見る者はみな驚き恐れたという話を聞いたことがある……」と言っており。ここでたたえた戦いぶりが、当陽でのものとまでは言っていない。

なお、翼徳は(『三国志演義』における)張飛のあざな。正史『三国志』では益徳(えきとく)とある。

(06)祁山 司馬懿の本営

一方、魏の本陣では、この惨退を知った司馬懿が、手を額にあてて色を失い、その敵たることを忘れ、ただただ嘆じていたという。

「またわが考えの先を越されていたか。孔明の用兵は、まさに神通のものだ。凡慮を超えている」

それでも司馬懿は自らの気を奮い、さらに心を落ち着かせると、昼夜、肝胆を練り砕き、次の作戦を案じていた。

(07)祁山 諸葛亮の本営

序戦二度の大勝に、蜀軍は大いに士気を上げたばかりでなく、魏軍の豊かな装備や馬匹(ばひつ)、武具などの戦利品も多く得る。

けれど司馬懿の軍勢は、それきり容易に動かない。やむなく諸葛亮も滞陣のまま半月余りを過ごす。

諸葛亮は、かこち顔に言った。

「動く敵は計りやすいが、まったく動かぬ敵には施す手がない。かかるうち味方は運送に、兵糧の枯渇に当面しては、自然、形勢は逆転せざるを得まい。はて、何とすべきだろうか」

こうして幕々の諸将と評議していると、成都(せいと)から勅使の費禕(ひい)が着いた。

管理人「かぶらがわ」より

いよいよ直接対決の形となった諸葛亮と司馬懿。ですが、またも司馬懿が計られてしまいました。

まぁ、それでも――。いつも壊滅的な損害を食わないのが司馬懿。諸葛亮がこういう勝ちを積み重ねていくうちに、結局は司馬懿もパワーアップしているのですよね。

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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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