孫権(そんけん)が曹操(そうそう)との開戦を決断すると、周瑜(しゅうゆ)は呉軍大都督(ごぐんだいととく)として出陣し、長江(ちょうこう)の南岸に本営を設けた。
このとき諸葛亮(しょかつりょう)も参陣したが、周瑜は彼を呼び、ある難題をふっかける。諸葛亮はすぐに周瑜の意図を看破するが――。
第150話の展開とポイント
(01)長江
諸葛亮は改めて孫権に暇(いとま)を告げ、その日、少し遅れて一隻の軍船に身を託す。同船の人々はみな前線に赴く将士で、この中に程普(ていふ)や魯粛(ろしゅく)もいた。
(02)長江の南岸 周瑜の本営
周瑜が諸葛亮を呼ぶよう言うと、魯粛は自ら迎えに行く。雑談の末に周瑜は、白馬(はくば)や官渡(かんと)の戦いにおける曹操の大勝利が、何に起因するものなのか説き明かしてほしいと言った。
諸葛亮は、大勝を決定的にしたのは、曹操軍の奇兵が袁紹側(えんしょうがわ)の烏巣(うそう)の兵糧を焼き払ったことだろうと答える。
すると周瑜は膝を打ち、自分もそのように見ていたと応じたうえ、曹操の兵糧がことごとく聚鉄山(じゅてつざん)にあることを探り得ていると話す。
★三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「聚鉄山は山の名。荊州(けいしゅう)に属す。後漢(ごかん)・三国時代にはこの地名はなかった」という。
そして、決死の兵1千余騎を貸すので夜陰に敵地深くへ入り、この糧倉を焼き払ってもらえないかと持ちかける。
諸葛亮は、敵の手を借り自分を害そうとする考えに違いないと悟るが、欣然(きんぜん)と承知して帰っていく。
(03)長江の南岸 諸葛亮の仮屋
そっと魯粛がうかがうと、諸葛亮は早くも武装して夜に入るのを待っている様子。こらえかねた魯粛が姿を見せて真意を尋ねると、諸葛亮は、江上の名提督たる周閣下(周瑜)も陸戦においては河童(かっぱ)も同様で、何の芸能もないと言う。
兵1千騎を託して聚鉄山の糧倉が焼き払えると思っているなどというのは、まったく陸戦に暗い証拠ではないかと。
(04)長江の南岸 周瑜の本営
驚いた魯粛がこのことを伝えると、周瑜は諸葛亮の出陣を止めるよう言い、自ら5千余騎をひきいて敵の糧倉を焼き払ってみせると息巻く。
★『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第45回)では、周瑜は1万の騎兵をひきいて聚鉄山へ行こうとしていた。
この話を魯粛から聞いた諸葛亮は笑い、よく理を説いて思いとどまらせたほうがよいと言う。
薄暮の中、5千の兵が勢ぞろいしていたところへ魯粛が駆けつけ、諸葛亮の言葉を伝える。
すると周瑜は急に出立を取り消す。言われるまでもなく、その危険なことは十分に知っていたからだった。
しかし、その夜の挙は見合わせたものの、諸葛亮に対する害意に変更は来さなかった。むしろ彼の英知を恐れるあまり、殺意はいよいよ深刻となり、後日の機会にと、ひとり密かに誓っていたに違いなかった。
(05)夏口(かこう)
一方、江夏(こうか)の劉備(りゅうび)はこの地を劉琦(りゅうき)の手勢に守らせ、自身と直属軍とは夏口城へ移っていた。
そして毎日のように樊江(はんこう)の丘へ登り、諸葛亮の身を案じていたが、遠く物見に出ていた一艘(いっそう)が帰帆し、呉軍(ごぐん)と魏軍(ぎぐん)が開戦したことを報告。
喜んだ劉備は城楼に臣下を集め、呉軍の陣中見舞いに赴き、諸葛亮の安否を探ってくる者を募る。糜竺(びじく。麋竺)が進んで望むと、劉備は申し分ないとして起用を決めた。
★ここで糜竺の経歴が語られていたが、「進んで自分の妹を玄徳(げんとく。劉備のあざな)の室に入れ(た)」とあった。
先の第99話(02)でも触れたが、吉川『三国志』では鴻芙蓉(こうふよう。白芙蓉〈はくふよう〉)が糜夫人(麋夫人)ということになっている。鴻氏の娘であるはずの鴻芙蓉が、なぜ糜竺の妹ということになった(すり替わった?)のかがわからない。オリジナル設定なのだろうが、何らかの説明が必要だったと思う。
(06)長江の南岸 周瑜の本営
糜竺が着くと、周瑜は陣中見舞いの品々を快く納めてもてなしはしたが、諸葛亮のうわさなどには一切触れてこない。翌日、またその翌日と、会談は両三回(2、3回)に及んだが、いつも諸葛亮の話題を避けていた。
3日目の朝、糜竺が暇を告げると、初めて周瑜は諸葛亮が陣中にいることに触れ、劉備どのを招いて相談したいと言いだす。
★ここでは3日目の朝とあったが、直前の記述を見ると4日目の朝とすべきだろう。なお井波『三国志演義(3)』(第45回)では、糜竺が周瑜の本営に数日滞在していたのかはよくわからなかった。一泊もせず帰っているようにも見えたが……。
(07)夏口
糜竺から委細を聞くと、さっそく劉備は船の準備を言いつける。関羽(かんう)ら諸臣は軽挙を危ぶむが、劉備は行くと言って聞かない。
趙雲(ちょううん)と張飛(ちょうひ)は留守を託され、関羽が供をすることになった。こうして劉備はわずか20余人の随員を伴い、ほどなく呉の中軍地域に着いた。
(08)長江の南岸 周瑜の本営
周瑜は営門に出迎え賓礼を執り、帳中に請じて劉備に上座を譲る。挨拶を交わした後は酒宴に移り、重礼厚遇、至らざるなしだった。
その日まで諸葛亮は何も知らなかったが、ふと江岸の兵から、今日のお客は夏口の劉皇叔(りゅうこうしゅく。天子〈てんし〉の叔父にあたる劉備)であると聞き、周瑜の本営へ急ぐ。そして帳外にたたずみ、密かに主客の席をうかがった。
管理人「かぶらがわ」より
諸葛亮に加え、劉備も殺してしまおうと計る周瑜。ただこの第150話では、周瑜が本営を置いた場所がはっきりしませんでした。
まず原文には、「三江(さんこう)をさかのぼること7、80里、大小の兵船は蝟集(いしゅう)していた」とあり、これに続いて「江岸いたるところに水寨(すいさい)を構え、周瑜はその中央の地点に位する西山(せいざん)をうしろにとって水陸の総司令部となし……」とありました。
これは烏林(うりん)の対岸の赤壁(せきへき)に、この時点で陣営を築いたということなのでしょうか? どうも位置関係がわからなかったです。
次の第151話では、周瑜の本営を離れた劉備が江をさかのぼっていったという記述があり、50里ほど進んだ江上で張飛の船団と合流し、夏口へ引き揚げたことになっていました。
夏口まで50里以上さかのぼって帰るということは、周瑜の本営が夏口から50里以上は下流にあったことになるでしょう。ならば柴桑(さいそう)と夏口の間という位置になるはずで、やはりよくわからない。
なので、この第150話では「長江の南岸 周瑜の本営」という書き方にとどめておきました。
『三国志演義大事典』によると、西山と実は3か所あった「赤壁」という名の山がポイントになるようです。
「(西山は)山の名。樊山(はんざん)ともいう。荊州江夏郡に属す。現在の湖北省(こほくしょう)鄂城市(がくじょうし)西。長江を隔て赤壁と対峙(たいじ)している」とあります。
また「現在は九曲嶺(きゅうきょくれい)以上の部分を西山、樊口(はんこう)寄りの部分を樊山と呼んでいる」ともあり、「赤壁という地名は3か所あるが、西山の対岸にあるのはこのうち黄岡赤壁(こうこうせきへき)である。黄岡赤壁は『三国志演義』において蒲圻赤壁(ほきせきへき)と混同されている」ともありました。
あぁ、なるほどという感じ。複数ある赤壁を混同しているため、何だか地理関係が把握しにくくなっていたのですね。
ちなみに井波『三国志演義(3)』(第45回)では、周瑜の船団は続々と夏口を目指して進み、三江口(さんこうこう)から5、60里の地点で停泊。
周瑜は中央に陣取り、長江岸の西山のふもとに陣営を構え、その周囲に軍勢を駐屯させた。諸葛亮だけは小船に乗ったまま休息していた、とありました。
『三国志演義大事典』によると、三江口という地名も長江沿岸に3か所あるそうです。
ここでいうのが現在の湖北省黄岡県西にあった三江口。ほかに現在の湖北省鄂城市西と湖南省(こなんしょう)岳陽市(がくようし)北にあたる地にも三江口があったのだとか。これはややこしい……。
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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