吉川『三国志』の考察 第149話「大号令(だいごうれい)」

諸葛亮(しょかつりょう)から聞いた話に激怒し、一転して曹操(そうそう)との開戦に傾く周瑜(しゅうゆ)。

翌朝に開かれた柴桑城(さいそうじょう)の評議の席でも、和平を唱える重臣たちを臆病者呼ばわりし、とうとう孫権(そんけん)に開戦を決断させる。

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第149話の展開とポイント

(01)柴桑

暁天、柴桑城の大堂には早くも文武の諸将が整列し、孫権の出座を迎えていた。やがて周瑜の到着が告げられる。

孫権は威儀を正して登階を待ち構えていたが、このとき侍立する文武官の顔ぶれを見れば、左列には張昭(ちょうしょう)・顧雍(こよう)・張紘(ちょうこう)・歩隲(ほしつ。歩騭)・諸葛瑾(しょかつきん)・虞翻(ぐほん)・陳武(ちんぶ)・丁奉(ていほう)などの文官。

ここに名が挙げられていた人物のうち、陳武と丁奉は文官ではなく武官。ちなみに『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第44回)では、「左側には張昭・顧雍ら文官が30人余り……」という記述にとどめていた。

そして、右列には程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)・韓当(かんとう)・周泰(しゅうたい)・蔣欽(しょうきん)・呂蒙(りょもう)・潘璋(はんしょう)・陸遜(りくそん)などをはじめとし、すべての武官36将が衣冠剣佩(けんぱい)を整え周瑜の姿を待っていた。

同じく井波『三国志演義(3)』(第44回)では、「右側には程普・黄蓋ら武官が30人余り居並ぶ」という記述になっていた。

孫権は口を開くなり直問し、忌憚(きたん)なく腹中を述べよと言う。周瑜が、ご返答の前にこれまでの諸将の意見を教えてほしいと言うと、孫権は張昭以下、その列の者たちが降伏を勧めていると伝えた。

すると周瑜は、張昭から降伏を主張する理由を聞き、いちいち否定してみせる。こうして和平派の文官たちの口をまったく封じたうえで、自己の主張を述べ始めた。

曹操軍が強勇なことは確かだが、それは陸兵だけのこと。北国育ちの野将や山兵に、何で江上の水軍が操れようか。またわが呉は、南方は環海の安らかに、大江の険は東方を巡り、西隣にも何の憂いもないと。

ところが魏(ぎ)は、北国の平定もつい昨日のこと。その残軍離亡の旧敵などが絶えず破れをうかがっている。

ここで初めて曹操の勢力を「魏」と表現していた。また、すでに孫権の勢力も「呉」と表現されている。さすがにこの時点で劉備(りゅうび)の勢力を「蜀(しょく)」とは表現していないが、魏はもちろんフライングだし、呉のほうも同様だと思う。

とはいえ孫権は呉郡(の富春県〈ふしゅんけん〉)の出身なので、「呉の孫権」という呼び方はアリだろう。なお井波『三国志演義(3)』(第44回)では、ここで曹操の勢力を「魏」とは表現していなかった。

許都(きょと)の中府を遠く出て江上や山野に転戦していることは、我ら兵家が心して見れば、その危うさは累卵に等しいものがあると。このように述べたうえ、降伏の主張は誠に言語道断な臆病沙汰というほかないと結ぶ。

周瑜は数万の兵と船を授けるよう願い出て、まずもって敵の大軍を撃砕し、口頭の論よりは事実を示し、和平を唱える諸員の臆病風を一掃してご覧に入れると言い切る。

孫権は周瑜に全軍を督すよう命じ、魯粛(ろしゅく)には陸兵の指揮を命ずる。さらに周瑜から決心の固さを問われると、いきなり立って佩剣を抜き払い、目の前の几案(つくえ)を一気に両断してみせた。

孫権はその剣を周瑜に授け、この場で呉軍大都督(ごぐんだいととく)とし、程普を副都督(ふくととく)に任じ、魯粛を賛軍校尉(さんぐんこうい)に任ずる。

周瑜は剣を拝受して、主君から打破曹操の大任を受けたと宣言。軍律の徹底を指示し、明日の暁天までに出陣の準備を整え、江のほとりに集まるよう命じた。

(02)柴桑 周瑜邸

帰宅した周瑜はすぐに諸葛亮を呼び、今日の模様と大議一決の由を語り、密かに良計を尋ねる。

諸葛亮は心の内で「わが事成れり」と思ったが、色には見せず、呉君(孫権)のお胸にはなお一抹の不安を残しておられるに違いないと言い、労を惜しまず暁天の出陣までにもう一度登城され、つぶさに敵味方の軍数を説き示し、確たる自信をお与えしておく必要があると勧めた。

(03)柴桑

同意した周瑜が夜半に再び登城すると、まだ孫権も寝ていなかったようで、すぐに会ってもらえた。

周瑜は、味方の兵力の少なさを不安に思っていると言われ、曹操軍の構成などを説いて安心させる。孫権は話を聞くと初めて確信を抱いたようで、なお大策を語り合い未明に別れた。

周瑜は帰りの道すがら、諸葛亮の慧眼(けいがん)と知慮に驚いていた。嘆服するあまり、密かに後日の恐怖さえ覚えてきた。

(04)柴桑 周瑜邸

周瑜は使いを遣って魯粛を呼び、いっそ今のうちに諸葛亮を刺し殺したらどうかと、密かに諮る。

だが魯粛は断固反対し、別の一策をささやく。諸葛瑾を差し向けて諸葛亮を説かせ、呉の正臣としたらどうかというのだ。

周瑜にも異存はなかったが、早くも窓外の暁天が白みかけてきたので、「では後刻」といったん別れる。

(05)柴桑 長江(ちょうこう)の江岸

周瑜は集まった5万の将士に戦の意義を説いた後、諸将の配陣を発表。

韓当と黄蓋を先鋒とし、大小の兵船500余艘(そう)をもって三江(さんこう)の岸を目指して進み、陣地を構築せよと。

第2陣は蔣欽と周泰、第3陣は凌統(りょうとう。淩統)と潘璋、第4陣は太史慈(たいしじ)と呂蒙、第5陣は陸遜と董襲(とうしゅう)。

そして、呂範(りょはん)と朱治(しゅち)の二隊には督軍目付(とくぐんめつけ)の任務を命じた。

井波『三国志演義(3)』(第44回)では、呂範と朱治を四方巡警使(しほうじゅんけいし)に任じたとある。

(06)柴桑 諸葛亮の客館

その朝、諸葛瑾はひとり駒に乗り、諸葛亮の客館を訪ねる。周瑜から急な密命を受け、弟を呉の臣下に加えるべく説きつけに来たのだった。

諸葛亮は諸葛瑾の手を取って部屋へ迎え入れる。懐かしさやうれしさ、また幼時の思い出などに、ただ涙が先立った。

諸葛瑾も瞼(まぶた)を潤ませ、しばらくは骨肉相擁したまま言葉もなかったが、やがて心を取り直して言う。

「弟、お前は古人の伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)をどう思うかね?」

諸葛亮は唐突な質問を怪しむと同時に、さてはと心にうなずいていた。

さらに諸葛瑾は、伯夷と叔斉の美しい兄弟仲を思うにつけ、自分たち兄弟の態度が人の子として恥ずかしいのではないか、とも言う。

しかし諸葛亮は、人道の義や情よりも忠と孝は重いと応じ、私も兄上もみな漢朝(かんちょう)の人たる父母の子だと言う。

続けて、私がお仕えしている主君は中山靖王(ちゅうざんせいおう。劉勝〈りゅうしょう〉)の後胤(こういん)で、漢の景帝(けいてい。劉啓〈りゅうけい〉)の玄孫にあたるお方だとし、もし兄上が志を翻してわが主君に仕官されるなら、父母は地下においてどんなにご本望に思われるか知れますまい。そのことはまた、忠の根本とも合致するでしょう、とも言う。

諸葛瑾はひと言もない。言おうとしていたことをみな弟から言いだされ、かえって自分が説破されそうな形になった。

そのとき江岸のほうで、遠く出陣の金鼓や螺声(らせい)が鳴り轟(とどろ)く。諸葛亮は兄の心を察し、自分に構わず出陣するよう促した。

ついに諸葛瑾は胸中のことを言いださず、外へ出てしまう。心の内には「ああ、偉い弟……」と喜ばしくも思い、また苦しくも思った。

(07)柴桑 長江の江岸

周瑜は事の不成立を聞くと、「では足下(きみ)も、やがて孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)とともに江北(こうほく)へ帰る気ではないか?」と露骨に尋ねる。

諸葛瑾はあわてて否定し、そのような疑いを被るとは心外だと言った。周瑜は冗談だと笑い消したが、諸葛亮に対する害意は次第に強固になっていた。

管理人「かぶらがわ」より

とうとう出陣に踏み切った孫権。そして諸葛亮の才知に警戒を強める周瑜。

この第149話では「ああ、偉い弟……」が強く印象に残りました。これは諸葛亮以上に、諸葛瑾の偉さを示していると思います。

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