吉川『三国志』の考察 第240話「成都鳴動(せいとめいどう)」

関羽(かんう)の最期を聞き、昏絶(こんぜつ)する劉備(りゅうび)。それから数日は食事も取らず、誰とも会おうとしなかった。

それでも諸葛亮(しょかつりょう)に諫められると、気力を奮い起こし、すぐさま孫権(そんけん)討伐の意思を示す。しかし諸葛亮は――。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

第240話の展開とポイント

(01)成都(せいと)

王妃の呉氏(ごし)は燭(しょく)が消えているのに気づくと、侍女に明かりを点けさせながら劉備のそばへ寄った。

劉備は机に寄って書を読んでいたのだが、呉氏に聞くとうなされていたという。二度までも大きなお声がしたので、何事かと見に来たのだと。

居眠って夢でも見ていたのだろうと、ようやく我に返った様子を見せる劉備。子どもらも呼び、呉氏とともにしばらく興じていたが、やがて寝所に入った。

ところが明け方、またも劉備は宵に見たのと同じ夢を見る。夢の中には一痕(いっこん)の月があった。

墨のごとき冷風は絶え間なく雲をそよがせ、雲の声とも風の声ともつかない叫喚(さけび)がやむと、寝所の帳(とばり)のすそに平伏している者がいる。

愕然(がくぜん)として劉備は怒鳴った。

「や、わが義弟(おとうと)ではないか? 関羽、関羽。このような夜更けに、そも何をしに来たか?」

それはまさしく関羽の影に違いないのだが、いつもの彼に似もやらず、容易に面も上げず、ただ凝然と涙を垂れている様子。

「桃園の縁もはかなき過去と成り果てました。家兄(このかみ)、早く兵のご用意あって、義弟の恨みをそそぎたまわれ……」

そう言ったかと思うと黙然と一礼し、水のごとく帳の外へ出ていくのだった。

「待て、待て。義弟!」

劉備は夢中で叫びながら、彼の影を追って前殿の回廊まで走りだす。

そのとき宙天一痕の月が鞠(まり)のように飛び、西山(せいざん)へ落ちたと見えたので、アッと面を覆いながら倒れてしまう。夢は夢にすぎなかったが、劉備が前殿の廊で倒れていたのは事実だった。

その朝、諸葛亮は常より早く軍師府に姿を見せており、舎人(とねり。そば近くに仕えて雑用などをする者)からうわさを聞くと、すぐ漢中王(かんちゅうおう。劉備)の内殿を訪れる。

劉備は二度まで見た夢の話をするが、諸葛亮は笑って言った。

「それはわが君が常に、遠くある関羽の身を、朝となく夜となくお思いあそばしておられるので、いわゆる煩悩夢をなすで、御心(みこころ)の疲れに描かれた幻想にすぎません」

「まず今日は、秋園の麗らかな下へ玉歩(貴人や婦人などが歩くことの美称)を運ばれ、王妃や若君たちと終日、嬉々(きき)とお遊びになられたがよいでしょう」

諸葛亮が退がって中門廊まで来ると、太傅(たいふ)の許靖(きょせい)が、彼方(かなた)から色を変えて急いでくる。

諸葛亮が尋ねると、許靖は早口に告げた。今暁の早打ちによると、荊州(けいしゅう)が破れたという。呉(ご)の呂蒙(りょもう)に計られ、荊州を奪われた関羽が麦城(ばくじょう)へ落ち延びたのだと。

諸葛亮は劉備の身を案じ、そのことはまだ披露しないほうがよいと言う。しかし劉備は廊の角に姿を見せ、遠くから言った。

「軍師、さばかりは案ずるな。予は健康である。また荊州の破れも関羽の変も、あらましは案じて、もう覚悟はいたしておる」

そこへ馬良(ばりょう)や伊籍(いせき)が来て、おのおのの口から荊州陥落の悲報を伝えた。

さらにその日の午(ひる)すぎには、関羽の幕下の廖化(りょうか)が、まるで乞食のような姿をして麦城からたどり着いた。

上庸(じょうよう)の劉封(りゅうほう)と孟達(もうたつ)が、頑として援軍を出さなかったと聞き、劉備は憤慨する。

そして自ら出陣せんと三軍に令し、閬中(ろうちゅう)にある張飛(ちょうひ)へ向けても早馬を遣った。

諸葛亮は極力なだめ、自分が一軍をひきいて関羽を救い出すので、劉封の君や孟達らのご処分は後にしてほしいと言う。

やがて張飛も駆けつけ、蜀中(しょくじゅう)の兵馬も続々と成都へ入る。ここ両三日(2、3日)、三峡(さんきょう)の密雲も風をはらみ、何となく物々しかった。

そのような折、国中を悲嘆の底へ突き落とすような大悲報は、ついに最後の早馬によって蜀宮の門に報ぜられる。

「一夜、関羽軍は麦城を出て蜀へ走らんとし、途中の臨沮(りんしょ)というところで、とうとう呉の潘璋(はんしょう)の身内の馬忠(ばちゅう)という者の手で捕らわれました。そして即日、呉陣において父子とも御首を打たれ、あえなきご最期を遂げられました」

かねて期していたことながら、劉備は慟哭(どうこく)のあまり昏絶。以来3日の間は食事も取らず、臣下にも会わなかった。

それでも諸葛亮は、強いて帳内に入ることを乞い、劉備を仰いで叱るがごとく諫める。

「死生命アリ富貴天ニアリ。桃園の誓いも約束なら、人の死や別離も当然な約束事ではありませんか。もしわが君までお体を損ねたら何といたしますか」

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『死生命アリ富貴天ニアリ』は)生死や富貴は天命によるもので、人の力の及ぶところではないこと。『論語(ろんご)』顔淵篇(がんえんへん)の言葉」という。

劉備が態度を改めると言うと、諸葛亮は今朝の情報として、呉は関羽の首を魏(ぎ)へ送り、魏では王侯の礼をもって国葬に付したと伝える。

諸葛亮から呉の意図を聞くと、速やかに出陣して呉を討つと言う劉備。

だが、諸葛亮は時を待つべきだと諭す。なお関羽が生存ならば、どのような犠牲も厭(いと)うものではないが、もう焦っても無益だと。

このうえは、しばらく兵を収めてジッと時の移りを見、呉と魏の間に何らかの不和を醸し、両者が争いの端を発したとき、蜀は初めて立つべきだと。

この日、漢中王の名をもって蜀中に喪が発せられ、成都宮の南門に関羽を祭る壇が築かれた。

管理人「かぶらがわ」より

夢に関羽の姿を見、その異変を悟る劉備。この段階での関羽の死は、蜀にとってあまりにも痛いものでした。

テキストについて

『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
Yahoo!ショッピングで探す 楽天市場で探す Amazonで探す

記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました