吉川『三国志』の考察 第065話 「陳大夫(ちんたいふ)」

袁術(えんじゅつ)は呂布(りょふ)が曹操(そうそう)と通じていたことを知り激怒し、すぐさま20余万の大軍を動員。これを7つに分け徐州(じょしゅう)へ攻め込む。

これを受けて呂布配下の陳宮(ちんきゅう)が、この事態を招いた陳珪(ちんけい)父子を問責するも、陳珪は持ち味を発揮し巧みに追及をかわす。

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第065話の展開とポイント

(01)許都(きょと) 曹操邸(そうそうてい)

曹操は、徐州(じょしゅう)の呂布(りょふ)の使者として来た陳登(ちんとう)を酒宴に招き、その人物を量る。陳登のほうも曹操の心中を探っていた。

陳登が、呂布とは真実の提携はできないとささやくと、曹操も同感だと応ずる。そこで曹操は本心を明かし、陳登から内応の約束を取り付けた。

その後、曹操は朝廷に上奏し、陳登を広陵太守(こうりょうのたいしゅ)に任ずる。また、その父の陳珪(ちんけい)にも老後の扶持として二千石(せき)の禄を給した。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第16回)では、曹操は上表して陳珪に中二千石の禄を与え、陳登を広陵太守に任じたとある。

(02)淮南(わいなん) 寿春(じゅしゅん)

このころ袁術(えんじゅつ)のところには、呂布のもとへ遣わした韓胤(かんいん)が許都の辻(つじ)で首を斬られたという知らせが届いていた。激怒した袁術は即座に20余万の大軍を動員し、これを7つに分け徐州へ送り込む。

袁術軍は呂布の前衛を蹴(け)散らし、怒濤(どとう)のごとく一隊が小沛(しょうはい)に侵入。そのほか各所の先鋒戦でもことごとく呂布軍を壊滅させた。

(03)徐州

呂布は事態の悪化にあわてだし、にわかに重臣たちを呼び集める。

この席で陳宮(ちんきゅう)が、このような大事を招いたのは陳珪父子であると述べ、ふたりの首を斬り袁術に献ずるよう勧めた。

その気になった呂布が使いを遣り、陳珪父子を呼びつけて首を斬ろうとすると、陳珪は呂布のことを臆病者だと笑う。

そして、袁術の大軍を烏合(うごう)の衆と断じ、第6軍の韓暹(かんせん)と第7軍の楊奉(ようほう)のふたりを抱き込み内応を約束させたうえ、劉備(りゅうび)と結ぶべきだと述べる。

呂布は罪を不問に付す代わりに、父子で謀略を施し敵中から内応を起こさせるよう命じた。

(04)徐州 陳登邸

一時帰宅を許された陳珪だったが、息子の屋敷に戻り自分の寝所へ入るとまた老衰の病人に返ってしまう。

(05)淮南 寿春

袁術は多年の野望を公然とうたい、皇帝(こうてい)の位に即く旨を自ら触れだす。例の孫策(そんさく)が預けた伝国の玉璽(ぎょくじ)があったため、とうとうこのような大それた者が出てしまったのである。

孫策が袁術に伝国の玉璽を預けたことについては、先の第54話(01)を参照。

そのうえ龍鳳(りゅうほう)の輦(れん。輿の形をした屋根と車輪つきの天子〈てんし〉の乗り物)に乗って南北の郊を祭り、馮氏(ふうし)の娘を皇后(こうごう)とし、後宮の数百人の美姫には、みな綺羅錦繡(きらきんしゅう)を装わせる。

さらに嫡子を立て東宮(とうぐう。皇太子〈こうたいし〉)と僭称(せんしょう)した。

井波『三国志演義(2)』(第17回)では、南郊と北郊で天と地を祭ったとある。

同じく井波『三国志演義(2)』(第17回)では、馮芳(ふうほう)の娘を皇后としたとある。

井波『三国志演義(2)』の訳者注によると「古代、皇帝は城南の郊外で天を祭り、城北の郊外で地を祭って、福運を授かることを祈願した」という。

もはや慢心した袁術を命がけで諫める臣下もなかったが、ただひとり主簿(しゅぼ)の閻象(えんしょう)が暴挙を諫めた。袁術は一喝して退けると、以後は誰であってもわが帝業をあげつらう奴は即座に断罪だと布令を出す。

こうして先発させた大軍の後から督軍と親衛軍の両軍を催し、自らも徐州攻略に赴いた。ところがその出陣にあたり、兵糧の奉行(ぶぎょう)を命じた兗州刺史(えんしゅうしし)の金尚(きんしょう)が何かグズグズと言う。

たちまち袁術は親衛兵を向け金尚を捕らえ、首を刎(は)ねて血祭りとした。

(06)行軍中の袁術軍

督軍と親衛軍が後ろに控えると前線の20万の兵も気を引き締める。7手に分かれた袁術軍は徐州へ向かう7つの道から攻め進み、行く先々の郡県の民家を焼き、田畑を荒らして財を掠(かす)めていた。

第1軍の張勲(ちょうくん)は徐州大路へ。
第2軍の橋蕤(きょうずい)は小沛路へ。
第3軍の陳紀(ちんき)は沂都路(ぎとろ)へ。
第4軍の雷薄(らいはく)は瑯琊(ろうや。琅邪)へ。
第5軍の陳蘭(ちんらん)は碣石(かっせき)へ。
第6軍の韓暹は下邳(かひ)へ。
第7軍の楊奉は峻山(しゅんざん)へ。

井波『三国志演義(2)』の訳者注によると「沂都という地名は後漢(ごかん)・三国時代にはない。地理的に見ると、この地は琅邪国の役所があった開陽県(かいようけん)に相当する」という。また「碣石は、実際には現在の河北省(かほくしょう)黎県(れいけん)に所属する地名であり、(『三国志演義』の)作者が適当に用いたに過ぎない」ともいう。

なお、この吉川『三国志』では峻山とあったが、井波『三国志演義(2)』(第17回)では浚山とある。

(07)徐州

呂布は陳珪が内応の計の効果を挙げてくるのを心待ちにしていたが、陳珪父子はあれきり顔も出さない。

侍臣を遣って屋敷をうかがわせると、陳珪はのどかな病室でひなたぼっこをしながら、いかにも老いを養っているという暢気(のんき)さだという。

怒った呂布は捕吏を差し向ける。夕げの卓を囲んでいた陳珪父子はたちまち捕らえられ、呂布の前に引き据えられた。

今日こそは断罪だと息巻く呂布に陳珪は、もうすでに策に着手していると告げる。近日中に敵の第6軍の韓暹と密会する手はずにまでなっているのだと。

陳珪は息子の陳登を城中に留めておくと言うと、一頭の牝羊(メヒツジ)を引き南門から出ていった。

井波『三国志演義(2)』(第17回)では、このとき言葉を交わしているのが呂布と陳登ということになっている。

ただし井波『三国志演義(2)』の訳者注では、ここでのやり取りを呂布と陳珪のものとする別本があることを指摘。より老獪(ろうかい)な陳珪の受け答えとしたほうがおもしろいか、との評が添えられていた。

管理人「かぶらがわ」より

呂布を陥れる謀計を仕込み始める陳珪と陳登。この第65話はまさに陳珪劇場といった感じでした。

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吉川『三国志』 (03) 草莽の巻
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