吉川『三国志』の考察 第104話 「燈花占(とうかせん)」

曹操(そうそう)の計略にはまり、延津(えんしん)で壊滅した袁紹(えんしょう)配下の文醜軍(ぶんしゅうぐん)。先の顔良(がんりょう)に続き、文醜を討ち取ったのも関羽(かんう)だった。

袁紹の許しを得て文醜の第二陣となっていた劉備(りゅうび)は、黄河(こうが)の対岸に遠目ながら関羽の姿を確認し、ひとり密かにその無事を喜ぶ。

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第104話の展開とポイント

(01)白馬(はくば)? 曹操(そうそう)の本営

顔良(がんりょう)を討ってから、ますます曹操は関羽(かんう)を重んずるようになる。彼の勲功を献帝(けんてい)に奏し、わざわざ朝廷の鋳工に封侯の印を作らせた。

これができ上がると、張遼(ちょうりょう)を使いとして届けさせる。しかし、関羽は「寿亭侯之印(じゅていこうのいん)」とある印面を見て受け取りを辞退した。

曹操は張遼の復命を受け、関羽が印文を見てから辞退したと聞くと、さっそく鋳工を呼び改鋳させる。改めてでき上がった印面には「漢(かん)」の一字が増えていた。

張遼が再び印を届けると、関羽は「漢寿亭侯之印(かんのじゅていこうのいん)」と改められた印面を見て笑い、今度は快く印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を受けた。

小ネタとしてはうまいと思うが、史実の関羽は「寿亭侯」ではなく「漢寿亭侯(かんじゅていこう。『漢寿』は地名)」である。

なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第26回)では、曹操の上表により関羽が「漢寿亭侯」に封ぜられ、印を贈られたとしか書かれていない。

このころ早馬が着き、文醜(ぶんしゅう)が黄河(こうが)を渡り延津(えんしん)に攻め寄せたとの急報が届く。

曹操は先に行政官を遣り、その地方の百姓を手際よく「西河(せいが。延津一帯の黄河西部地区)」という地に移す。そのうえで自ら軍勢をひきいて出陣したが、途中で荷駄や粮車などすべての輜重(しちょう)部隊を先に進ませ、戦闘部隊はずっと後に続かせた。

(02)延津

こうして変体陣のまま延津へ向かったが、案の定、戦闘装備を持たない輜重部隊は真っ先に敵に叩(たた)かれる。おびただしい量の兵糧を置き捨て、曹操軍の先頭は壊走してしまった。

曹操は立ち騒ぐ味方を鎮め、兵糧などは捨て置き、一隊は北へ迂回(うかい)し、黄河に沿って敵の退路を扼(やく)すよう命ずる。さらに、別の一隊は逃げるがごとく南の丘に駆け登るよう命じた。

文醜は、戦わないうちから曹操軍が逃げ腰になっているのを見ると、軍勢をひきいて存分に暴れ回る。兜(かぶと)や鎧(よろい)を脱ぎ、悠々と丘の上に潜り込んでいた曹操配下の部将たちも気が気ではなく、本当に逃げ腰になりかけた。

このとき物陰から荀攸(じゅんゆう)が、「いや、もっけの幸いだ。これでいいんだ!」と怒鳴る。すると曹操が、ジロリと白眼で彼の顔を見た。荀攸はハッと片手で口を押さえ、頭を搔(か)く。

まもなく曹操の計略は図に当たってくる。

日没ごろ、十分に戦果を上げた文醜は深入りに気づき、各部隊に凝結を命じた。後方の占領圏内には真っ先に壊滅した曹操軍の輜重部隊が、諸所に莫大(ばくだい)な粮米や軍需品を置き捨てていた。

文醜は鹵獲品(ろかくひん)を運び入れるよう命じ、後方に退がった各部隊は争って兵糧の発(あば)き合いを始める。

曹操は物見の者から敵情を聞くと、丘を下るよう命ずる。そして、みなふもとへ下りたところで丘の一端から烽火(のろし)を上げさせた。

烽火が上がると、昼のうちに敗れて逃げると見せかけ、実は野や丘、河や林に影を没していた味方は、大地から湧き出したように三面七面から奮い立つ。

曹操が文醜を生け捕れと励ますと、麾下(きか)の張遼や徐晃(じょこう)が先を争って追いかけ、ついにその姿を乱軍の中に捉(とら)える。

張遼は、文醜の矢を1本目こそかわすが、2本目を顔に受け落馬してしまう。引き返して首を取ろうとする文醜。

徐晃が躍り寄って張遼を後ろへ逃がすと、「白焰斧(びゃくえんぷ)」と称する大鉞(おおまさかり)を手に当たっていった。

ふたりは30余合(ごう)を交えたが、徐晃は疲れ果て文醜も乱れだす。四方に敵の気配が高まるのを感じだしたからだった。ここで一隊の悍馬(かんば)が近くを横切ったので、文醜はそれを機に黄河のほうへ逸走する。

するとひと筋の白い旗指物を背にし、10騎ほどの郎党を連れた将が彼方から近づいてきた。文醜が疑いながら間近まで進むと、墨黒々と「漢寿亭侯雲長関羽(かんのじゅていこううんちょうかんう)」と書かれている。

旗指物の文面として、こういう表記の仕方が適切なのかよくわからなかった。なお井波『三国志演義(2)』(第26回)では、旗の上には「漢寿亭侯関雲長」の7字が記されていたとあり、こちらの表記のほうがしっくりくる。

関羽は青龍の偃月刀(えんげつとう)を手に駆け寄り、文醜も大剣を舞わせて迫る。互いに命を賭(と)して渡り合うこと幾十合、そのうち文醜が急に馬首を巡らせ逃げ出す。

これは彼の奥の手で、相手が図に乗って追いかけてくると、その間に剣を鉄の半弓(小型の弓)に持ち替え、振り向きざまに矢を放とうというものだった。

だが関羽には効かず、2本目、3本目の矢もみな払い落とされ、ついに追い詰められて、後ろから偃月刀の横薙(な)ぎを首の根に食ってしまう。

関羽が文醜の首を挙げたと呼ばわると、百里(ひゃくり)の闇をさまよっていた袁紹軍は、さらに拍車をかけ逃げ惑った。

曹操は全軍に追撃を命じて敵を圧倒。討たれる者や黄河へ落ちて溺(おぼ)れ死ぬ者、袁紹軍の大半が夜明けまでに曹操軍の餌(え)になってしまった。

劉備は、戦(いくさ)の初めからずっと後陣に屯(たむろ)していたが、逃げ崩れてくる兵から第一陣の惨敗を聞き、厳しく自陣を守り固めていた。

夜明けとともに、劉備は一隊をひきい前線近くまで馬を進める。案内に立った敗兵が黄河支流の対岸を指差すと、ひとりの大将が遠くに見えた。しばらく眸(ひとみ)を凝らしていたが、小旗の文字がかすかに読める。関羽だと確信し、心中密かにその武運を天地に祈念した。

すると、後方の湖を渡り曹操軍が退路を断とうとしていると聞こえたので、あわてて劉備は後陣に退く。後陣も危うくなるとさらに十数里ほど退いた。

そのころようやく袁紹の救援が河を渡ってくる。劉備はこれに合流し、一時、官渡(かんと)の地へと引き移った。

(03)官渡 袁紹の本営

袁紹は郭図(かくと)と審配(しんぱい)から、こたび文醜を討ったのもやはり劉備の義弟の関羽だと聞かされる。今日は許さんと、劉備を呼ぶよう命ずる袁紹。

劉備は、曹操が関羽を用いて顔良と文醜を討たせたのは、あなたの心を怒らせ私を殺させるためだと賢察を乞う。

こう聞くとすぐに袁紹は一時の怒りを悔いる。こうして気色が直ると劉備を座上に請じ入れ、関羽をこちらに招くことはできないかと持ちかけた。

(04)劉備の軍営

劉備は袁紹の許しを得ると、自分の軍営に戻り関羽あての書簡をしたためる。そのとき陣幕から漏れる風で、灯火がパチパチと明るい丁子の花を咲かせた。

再会の日は近い、とつぶやく劉備。「燈花明るきとき吉事あり」という、『易経(えききょう)』の一辞句を思い出したからである。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると「(『易経』は)儒教経典のひとつで『五経』に数えられる。『周易(しゅうえき)』ともいい、占術を記録する。ただし『燈花』の吉兆は『易経』には見られない」という。

「五経」に数えられるのは『易経』『書経(しょきょう)』『詩経(しきょう)』『礼記(らいき)』『春秋(しゅんじゅう)』の5つの経典。

管理人「かぶらがわ」より

曹操に助力し、顔良に続き文醜まで討ち取ってしまう関羽。いくら劉備が懸命に弁明したとしても、これで斬られないというのはちょっとねぇ……。などと思っていたら、関羽が文醜を斬ったというのは史実に見えない話でした。

ですが、文醜が曹操の輜重部隊を用いた計に引っかかって斬られたことは、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)に見えます。『三国志演義』はこういう形の構成が巧みですね。

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吉川『三国志』 (4) 臣道の巻
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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