吉川『三国志』の考察 第051話「両虎競食の計(りょうこきょうしょくのけい)」

曹操(そうそう)は許昌(きょしょう)への遷都を実現したことで大将軍(だいしょうぐん)に任ぜられ、武平侯(ぶへいこう)に封ぜられた。

その後、とある酒宴で劉備(りゅうび)の話題が出ると、曹操はこのあたりで彼を何とかしておきたいと考え、荀彧(じゅんいく)の献策を容れる。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

第051話の展開とポイント

(01)洛陽(らくよう)の郊外 徐晃(じょこう)の軍営

楊奉(ようほう)は部下から、徐晃が敵方の者を引き入れ密談していると聞くと、すぐに数十騎を差し向けて幕舎を包みかけた。

そのとき曹操の伏兵が起こり、楊奉配下の数十騎を追い退ける。満寵(まんちょう)は徐晃を救出して戻り、徐晃は曹操に仕えることになった。

楊奉と韓暹(かんせん)は奇襲を試みたが、しょせん勝ち目はないとみたので南陽(なんよう)へ落ち延び、その地の袁術(えんじゅつ)を頼ることにした。

(02)許昌

やがて献帝(けんてい)の御車(みくるま)と曹操軍が許昌に到着。

まず曹操は宮中を定め、宗廟(そうびょう)を造営して司院や官衙(かんが。役所)を建て増し、許都の面目を一新。これと同時に曹操の旧臣13人が列侯(れっこう)に封ぜられ、曹操自身も大将軍に就任し武平侯に封ぜられた。

そのほか、前に勅使となり曹操に人品を認められていた董昭(とうしょう)は洛陽令(らくようれい)に登用され、満寵は功によって許都令に抜てきされた。

董昭が勅使として曹操のもとに来たことについては前の第50話(02)を参照。また『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第14回)では、范成(はんせい)と董昭が洛陽令になったとあるが、吉川『三国志』は范成を使っていない。

荀彧は侍中(じちゅう)・尚書令(しょうしょれい)に、荀攸(じゅんゆう)は軍師に、郭嘉(かくか)は司馬祭酒(しばさいしゅ)に、劉曄(りゅうよう)は司空曹掾(しくうそうじょう)に、催督(さいとく)は銭糧使(せんりょうし)に、それぞれ任ぜられた。

郭嘉の司馬祭酒について、この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「後漢(ごかん)・三国(時代)には実在しない職名。司馬の参謀役という意味になろう」という。

劉曄の司空曹掾について同じく新潮文庫の註解によると、「正しくは司空東曹掾(しくうとうそうじょう)ないし(司空)西曹掾(〈しくう〉せいそうじょう)。司空府で人事をつかさどる属吏。このときの司空は曹操である」という。

催督について同じく新潮文庫の註解によると、「原書とされる『通俗三国志』は『毛玠(もうかい)、任峻(じんしゅん)を典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)、催督銭糧使(さいとくせんりょうし)とし……』としており、そこでの催督は官名の一部。ただし後漢・三国(時代)には実在しない職名。これを人名とするのは吉川本の誤り」という。

夏侯惇(かこうじゅん)・夏侯淵(かこうえん)・曹仁(そうじん)・曹洪(そうこう)など直臣中の直臣はみな将軍に昇り、楽進(がくしん)・李典(りてん)・徐晃などの勇将はみな校尉(こうい)に任ぜられ、許褚(きょちょ)と典韋(てんい)は都尉(とい)に任ぜられた。

直臣の語意は「正しいと思うことを遠慮しないで進言する家臣」である。ただ、ここでは「特に曹操と関係が近い」という意味で使われているようだ。わが国風に言うところの直参(じきさん)のイメージか。

また典韋については先の第43話(03)で、すでに領軍都尉(りょうぐんとい)に昇進したとの記述があった。

多士済々、曹操の権威はおのずから八荒(はっこう。八方の果て。全世界のこと)に振るった。

その後、ある酒宴の席で劉備のうわさが出る。曹操は徐州太守(じょしゅうたいしゅ)に成り済ましている劉備が、呂布(りょふ)を小沛(しょうはい)に置いて扶持(ふち)していることを不安視。

ここで荀彧が一計を案ずる。それは二虎競食の計というもので、正式に徐州の領有を許されていない劉備に詔(みことのり)を下し、併せて密旨を添え、呂布を殺すよう命ずるとの策だった。

曹操も納得。数日後には詔を乞い、勅使が徐州へ向かう。この勅使は曹操の密書も併せて携えていった。

(03)徐州

劉備は勅拝の式を済ませると勅使を別室にねぎらい、静かに平常の閣へ戻ってくる。

井波『三国志演義(1)』(第14回)では、このとき劉備は征東将軍(せいとうしょうぐん)・徐州牧(じょしゅうぼく)に任ぜられ、宜城亭侯(ぎじょうていこう)に封ぜられていた。

勅使から渡された曹操の私書を開くと、呂布を殺せとの密命が記されていた。後ろに立っていた関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)にも私書を見せる劉備。

張飛は曹操の指図を機に、呂布を殺してしまえばよいと言うが、劉備は聞き入れない。

すると翌日、呂布が小沛から出てきて登城する。彼は曹操の密命のことは何も知らず、劉備に勅使が下って正式に徐州牧の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を拝したと聞いたので、祝辞を述べようと会いに来たのだった。

呂布が劉備との話を終えて退がってくると、物陰で待ち構えた張飛が躍り出て大剣で斬りつける。とっさに後ろに跳びかわす呂布。

ここで張飛は、曹操から呂布を殺すよう依頼が来ていることを話してしまう。再び張飛が斬りつけようとしたところ、後ろから劉備が抱き止める。劉備は張飛を叱りつけ、呂布に詫びる。

そしてもう一度、呂布を自室へ迎え直し、曹操から確かに密命があったことを打ち明けたうえ、密書そのものも見せて疑いを解いた。

管理人「かぶらがわ」より

許昌への遷都を実現し、いよいよ朝廷の実権を握る曹操。一方で正式に徐州の統治を認められた劉備は、真心をもって荀彧の二虎競食の計を退けました。

呂布と馬が合わない張飛は不満たらたら。それでも劉備の意向に背いてまで呂布を殺すというのは、さすがに無理ですよね。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました