人選を誤ったことで曹操軍(そうそうぐん)の襲来を招いてしまった徐州(じょしゅう)の陶謙(とうけん)。各地の諸侯がだんまりを決め込む中、援軍要請にただひとり応じた男がいた。
そうしているうちに曹操も、留守の兗州(えんしゅう)を呂布(りょふ)に奪われたため引き返さざるを得なくなり、濮陽(ぼくよう)で激闘を繰り広げる。
第043話の展開とポイント
(01)徐州
思わぬ劉備(りゅうび)の来援に徐州の城兵の士気はよみがえる。
★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第11回)では、北海(ほっかい)の孔融(こうゆう)や青州(せいしゅう)の田楷(でんかい)の援軍もそれなりの活躍をしているように見えた。
ところが吉川『三国志』では劉備らの活躍ばかり描かれており、さすがに持ち上げすぎの印象を受ける。ただ吉川『三国志』では田楷を使っていないため、こういう描き方になったものとも思う。
陶謙も喜びに震えながら劉備を上座に着かせると、太守(たいしゅ)の佩印(はいいん)を解き、今日から代わってあなたが城主の位置に就いてもらいたいと頼む。
驚いた劉備は極力辞退したが、陶謙も重ねて承諾を求める。それでもなお劉備は固辞して聞き入れない。この様子を見た糜竺(びじく。麋竺)が、太守交代の問題は後日に持ち越すよう勧めると、ふたりも納得。
すぐさま評議を開いて軍備を問うたうえ、一応は外交策に訴えてみることにし、劉備から曹操へ使者を立て、停戦を勧告する一文を送った。
陣中でこの文を見た曹操は腹を立てて引き裂き、使者を斬るよう言いつけ一喝に退ける。ところがそのとき兗州から続々と早打ちが駆けつけ、留守をうかがい呂布が攻め込んだことを知らせてきた。
長安(ちょうあん)を去った呂布は袁術(えんじゅつ)のもとに身を寄せていたが、その後は再び諸州を漂泊し、陳留(ちんりゅう)の張邈(ちょうぼう)を頼っていた。
ここで陶謙に頼まれて曹操の説得にあたり、失敗した後、同じく張邈のもとへ身を寄せていた陳宮(ちんきゅう)と出会う。
★このときの呂布と陳宮とのやり取りの中で、陳宮を「官を捨てて奔った(中牟〈ちゅうぼう〉の)県令(けんれい)」だとするものがあった。このことについて先の第24話(01)では、「関門兵の隊長、道尉(どうい)の陳宮」とあったが、この肩書きが中牟県令を指すと考えるのは苦しいと思う。なお井波『三国志演義(1)』(第4回)では初めから陳宮を中牟県令としており、肩書きに関する問題がない。
陳宮は呂布を焚きつけ、曹操が徐州攻略に出征しているうちに、手薄な兗州を電撃的に占領するよう勧めていたのだった。
曹操は早打ちを受け取り不覚を悔いたが、すぐに鋭い機知を働かせ、先ほどの劉備の使者を斬らずに連れてくるよう命ずる。そして使者に対し手のひらを返すように撤兵の断行を伝え、洪水が引くように兗州へ引き揚げた。
偶然ながら劉備の一文が奇効を奏したので、再び陶謙は太守の任を引き受けてもらいたいと迫るが、劉備はどうしても聞き入れない。
そこで陶謙から近郷の小沛(しょうはい)という一村を任せてもらい、ひとまずその地で兵を養い、よそながら徐州を守ることにした。
★井波『三国志演義(1)』(第11回)では、ここで趙雲(ちょううん)が涙ながらに劉備のもとを辞去していたり、孔融と田楷も自軍をひきいて帰途に就いていた。だが吉川『三国志』ではこれらのことに触れていない。
(02)兗州
曹操は軍勢をふたつに分け、曹仁(そうじん)に兗州を包囲させる一方、自身は呂布のいる濮陽へ突進する。
(03)濮陽
曹操は濮陽に迫ったところで兵馬にひと息つかせ、夕日が西に沈むまで動かなかった。ここで彼は、前に曹仁から注意された言葉を思い出す。
呂布の大勇には、この近国で誰も当たる者はない。それに近ごろ呂布のそばには例の陳宮が付き従っているし、その下には文遠(ぶんえん)、宣高(せんこう)、郝萌(かくほう)などという猛将が加わっているとのこと。
よくよく心をつけて向かわないと、意外に臍(ほぞ)をかむやもしれないというものだった。
★文遠は張遼(ちょうりょう)のあざな。同じく宣高は臧覇(ぞうは。臧霸)のあざなである。
呂布のほうも曹操の襲来を知り、藤県(とうけん)から泰山(たいざん)の難路を越え引き返してくる。ここで陳宮の諫めを聞かず、500余騎をもって対峙(たいじ)した。
曹操は呂布の西の寨(とりで)が手薄と見て、暗夜に山路を越え、李典(りてん)・曹洪(そうこう)・于禁(うきん)・典韋(てんい)らを従え不意に攻め込む。
呂布はその日、正面の野戦で曹操軍を散々に討ち破ったため驕(おご)っており、陳宮が西の寨が危険だと注意を促したにもかかわらず、気にかけず眠っていたのだった。
濮陽の城内は混乱を来し、西の寨はたちまち陥されてしまう。それでも跳ね起きた呂布が指揮にあたると、その麾下(きか)は秩序を取り戻して寨を包囲した。
山間の険を越えて深く入り込んでいた曹操らは、大軍でもなかったうえ地理にも暗い。そのためいったん占領した寨が、かえって危地となった。
夜が白みかけたころ、曹操はにわかに寨を捨てて逃げ出す。だが南にも東にも逃げ場はなく、昨夜(ゆうべ)越えてきた北方の山地へ奔るしかなかった。
逃げ回った末、曹操は城内の街の辻(つじ)を踏み迷い最期を覚悟したが、そこへ敵の真っただ中を切り開き典韋が駆けつける。典韋の活躍でようやく曹操らが山のふもとまで来ると、夏侯惇(かこうじゅん)が数十騎で逃げ延びてきたのと合流。
味方の負傷者と戦死者は全軍の半数を超え、惨憺(さんたん)たる敗戦となった。だが「悪来(あくらい)」とあだ名されていた典韋は、この日の功により領軍都尉(りょうぐんとい)に昇進した。
その後、呂布は陳宮の献策を容れ、城下の富豪である田氏(でんし)の書面を用い、曹操を濮陽城内におびき寄せようとする。
曹操は城外の軍営で、百姓が届けた密書を見て喜ぶ。密書には、呂布は黎陽(れいよう)へ行っており、濮陽城には留守の兵しかいないと書かれていたうえ、田氏が内応し、城中からかく乱するとも書いてあった。
使いの百姓をねぎらい承諾の返事を持たせて帰すと、劉曄(りゅうよう)が危険だと注意を促す。曹操は彼の進言を容れ、軍勢を三分して少しずつ城下へ迫る。城下に入った後は夜の総攻撃まで兵馬を休ませ、敵が誘ってきても深入りしないよう戒めた。
そこへ呂布の城兵が奇襲をかける。街の辻々で少数の兵同士が衝突し、一進一退を繰り返しているうちに日が暮れた。
曹操は田氏から届けられた新たな密書を見ると、示された策に従い総攻撃の配置にかかる。
夏侯惇と曹仁の部隊を城下の門に留め、先鋒には夏侯淵(かこうえん)・李典・楽進(がくしん)と押し進め、中軍を典韋ら四将で囲ませ、曹操自身は真ん中で指揮にあたった。こうして重厚な陣形を作り、徐々に内城の大手(表口)へ迫る。
李典は城内の空気に妙な静寂を感じ、しばらく進軍を待つよう言うが、曹操は聞き入れず真っ先に馬を進めだす。やがて田氏の合図の法螺貝(ほらがい)が鳴り響くと、曹操軍は開け放たれた正面の城門からなだれ入った。
ところがここで、どこからともなく石の雨が降ってくる。さらに石垣の陰や政庁の建物の陰からは無数の松明(たいまつ)が投げ込まれる。
曹操は敵の謀計にかかったと悟り、退却するよう叫ぶ。しかし、後続の部隊が後から後から城内へ押してきたため容易に退くことができなかった。
石や投げ松明の雨がやむと、城内の四門が一斉に開き呂布軍が現れる。曹操軍は混乱の中で挟撃を受け、意気地もなく殲滅(せんめつ)された。討たれた者や生け捕られた者は数知れなかった。
逃げ場を失った曹操は血路を開いた典韋に続き、吊り橋を渡り城下の街へ出る。ここまでの間に典韋とはぐれ、ひとりになっていた。
曹操は暗い街の辻で従者を連れた呂布と出くわすが、顔を背け手で隠しながら、何げないそぶりを装ってすれ違う。
すると呂布は戟(げき)の先を伸ばし、曹操の兜(かぶと)の鉢金を軽く叩く。彼は味方の部将と間違えたらしく、曹操の行方を知らないか尋ねる。曹操は作り声で応じ、ある方角を指さすと一散に逃げ去った。
呂布が怪しいと気づいたときには、もうその影は街中に立ち込めている煙の中に見えなくなっていた。
しばらく曹操がさまよっていると、彼を捜していた典韋と出会う。曹操は典韋に守られながら辻々で血路を切り開き、東の街道に出る城外の門まで逃げてきた。ただ街道口の城門は盛んに焼けており、とても通れそうになかった。
曹操は戻るしかないと言ったが、典韋は自分が先に駆け抜けるから、すぐ後から続いてくるよう言う。
曹操は典韋に続き、火炎の洞門へ駆け込む。もう一歩で楼門の向こう側に駆け抜けられるというとき、楼上の一角が焼け落ちた。
馬が脚をくじいて倒れると、放り出された曹操の体の上に火に包まれた巨大な梁(はり)が落ちてくる。仰向けで火の梁を受け止めたため、手にも肱(ひじ)にも大火傷(おおやけど)を負う。そのまま気を失ったが、かすかに意識を取り戻したとき、曹操は典韋の馬上に抱えられていた。
(04)曹操の寨
夜が明け、四散していた曹操軍が味方の寨に帰ってくる。みな惨憺たる敗北の血と泥にまみれ、生きて帰ったのは全軍の半数にも足らない。
曹操は半身に大火傷を負い治療を受けていたが、平常より快活な声で笑ってみせる。そして、呂布ごとき者の計に落ちたのは面目ないが、自分もまた計をもって報いると告げた。
そこで夏侯淵に、曹操が死んだとして喪を発し、仮埋葬を営むと触れ、仮の柩(ひつぎ)を馬陵山(ばりょうざん)へ葬るよう命ずる。これは呂布が城を出て攻め寄せることを読み、馬陵山の東西に兵を伏せ、敵を円陣の内に引き寄せて殲滅しようという策だった。
ほどなく曹操が死んだという知らせが濮陽まで聞こえてくる。呂布は曹操の陣を探らせ確証を得ると、葬儀の日を狙って濮陽城から出撃し、一挙に曹操軍を葬り尽くそうとした。
その結果、馬陵山で1万近い兵を失い、命からがら逃げた。それ以来、濮陽を固く守り、城から出てこなくなった。
管理人「かぶらがわ」より
留守の兗州を呂布に奪われ、あわてて徐州から引き返す曹操。陶謙の頼みを再三にわたり断った劉備は小沛へ。
この第43話は濮陽を巡る曹操と呂布との戦いがメインでしたが、吉川先生の渾身(こんしん)の力が込められた一話だったと思います。いろいろなことが出てきて話の展開を追うのが大変でしたけど――。
当時は州治(州の役所が置かれた場所)だった城(街)を兗州(城)などと州名で呼ぶことがあり、吉川『三国志』でも話がわかりにくいところがありました。
もう少し先の話になりますが、荊州(けいしゅう)に三者の勢力が入り交じったときなどは、それぞれ独自に州治を定めたことから3つの荊州城があったりするのですよね……。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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